「禁門の変」責任者三家老、福原越後①

長州藩が幕末に引き起こした「禁門の変」で責任を問われ切腹した三家老の一人国司信濃のことを既に書いたが、国司氏の他にもう一人、ふるさと厚狭に所縁があるのが福原越後である。

福原越後は現在厚狭が含まれる山陽小野田市の隣、宇部市周辺の領主であり、また既に3月12日のこの日記に書いた厚狭毛利家10代元美夫人勅子(ときこ)女史の実兄に当たる。

越後本人の前に福原氏に触れるが、毛利氏に於ける福原家は正に柱石と呼ばれるに相応しい家で、福原氏の祖は毛利氏と同じ鎌倉幕府政所初代別当を勤めた大江広元に発しており毛利と同族である。

安芸(広島県)福原村を本拠にした時から福原氏を称したが、毛利氏との間に強固な信頼関係を築き、福原広俊の娘が毛利弘元に嫁いで生まれたのが元就である。
兄興元の死後、元就に家督相続を要請した重臣15名の署名筆頭に広俊の嫡孫で同名の広俊の名がある。

この広俊の跡を継いだのが貞俊で、元就からの信頼厚く、元就、隆元、輝元と続く時期の毛利家舵取りを吉川元春小早川隆景と共に担っている。
更に貞俊の孫広俊(何度も同名を名乗る)は輝元の大いなる信頼を得て関ヶ原から長州萩藩成立期に活躍する。

下関市立長府歴史博物館の史料解析に依れば、毛利家当主輝元は、福原広俊安国寺恵瓊の両名に関ヶ原戦に於ける前線の判断を委ねており、安国寺は西軍、福原は吉川広家と共に東軍への工作で動き、全軍の統制が出来ておらず、結果的に部隊総指揮官の毛利秀元関ヶ原で身動きできず敗軍に繋がったとされる。

この為、毛利秀元の長府毛利家と、岩国吉川家、福原家との間の確執が長く残った。

福原広俊はこの経過もあり関ヶ原戦後、毛利家の対徳川折衝役を勤めて家中で重きを成す。

◎近所の団地内くぬぎ林、この時期の緑は特に目に鮮やか。
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