長州・長門国と防州・周防国

先日NHKBSの番組「新日本風土記」で山口県庁のある山口市をテーマにしていたがその冒頭、アナウンサーが「ここは長州山口」と紹介した。山口市周防国の領域であり「防州山口」が正しくNHKでもそうかと思いこの日記に書くつもりになった。

私の生まれた山口県律令制旧国名では東部の周防国(すおうのくに)防州と西部長門国(ながとのくに)長州で構成されており防長2州と呼ばれる。例えば山口県の地方新聞の名前は防長新聞である。

ところが世間では山口県イコール長州と思っている人が大変多く長門国側に生まれた身には多少有り難くもあるが………。

NHKの例などは単なる認識不足なのでまあしょうがないが、周防岩国の酒を長州の酒と宣伝しているのは岩国領主で毛利の分家吉川氏が関ヶ原で徳川氏に加担していた経過を知る身として、岩国の人には申し訳ないがどうにも引っ掛かりがある。

こうなっている背景は江戸時代、今の山口県全域を毛利家が治め居城を長門萩に置いたため長州藩と通称され、明治維新
長州藩の名前がメジャーになったことにあると思われるが、長州藩と長州では領域が異なる。

毛利家は関ヶ原の敗戦で中国地方の太守から防長二州に押し込められ、日本海側萩に城を築く事になったが、本来は交通至便で温暖な周防国側の防府か山口に城を築きたかったのに、徳川氏への遠慮から防州藩でなく長州藩になってしまった。

比較的温暖な元の居城広島から萩に移った関ヶ原負け戦の責任者で当主の毛利輝元が最初の萩の冬を「寒い」と嘆いた記録が残されている。寒かったのは体より心の方だろう?