長府歴史博物館あれこれ

長府(ちょうふ)は字の通り律令(りつりょう)制下、長門国(ながとのくに)の国府があったところで現在は下関市に含まれる。

藩政時代は萩・毛利家の支藩長府藩5万石の支配下にあり、藩祖は関ヶ原合戦の折り毛利全軍を率いた毛利秀元である。

私の郷里・山口県厚狭から国道2号線を海沿いに西へ行くと関門海峡の手前右手に乃木将軍の生地であり、また高杉晋作が幕末に藩政を転換すべくクーデターで決起した功山寺(こうざんじ)のある長府の街に出逢う。

私の子供の頃から馴染みの街で、このブログでも毛利秀元長府藩のことなどを書いてきた。その縁もあり功山寺山門下にある下関市立長府歴史博物館の学芸員の方にも御世話になっている。

住んでいる施設に長府出身の方が居られ、その方から「城下町長府の文化・長府博物館50年の歩み」と題する昭和58年(1983)発行の本を見せていただいた。

これをきっかけに学芸員の方に問い合わせると、

・長府博物館は昭和8年竣工した長門尊攘堂(そんじょうどう)が起源で昭和25年長府博物館、昭和55年下関市立長府博物館、平成28年新築、下関市立歴史博物館に改組してきた経過がある。

長門尊攘堂は吉田松陰の遺志を受け、長州閥の一員で高杉晋作の弟分とも云うべき品川弥二郎(しながわやじろう)が京都に勤皇の志士を祀り、その事績を展示した「尊攘堂」が源である。

等が分かった。

🔘品川弥二郎は長州にも同様のものを建立することを桂弥一(かつらやいち)に遺嘱、桂は毛利家その他の援助を得て功山寺境内に長門尊攘堂を建設、西日本に於ける維新研究や志士顕彰の拠点となった。

🔘桂弥一は元長府藩士で、乃木希典と同門で学び長府藩の諸隊である報国隊(ほうこくたい)結成に参画した。四境戦争では小倉口、戊辰戦争では北越長岡の戦いに従軍している。郷里の厚狭毛利家・強義隊も小倉口の戦いに参加していることからどこかの戦場で出合っていた可能性がある。

 

【林道に 木洩れ日仄(ほの)か 苔寒し 】

 

🔘近くの県有林を再訪、とにかく寒い。ここを通り抜けて大きく迂回しきつい坂道を上って施設に帰る約3kmのルートが地図アプリを見ながら新しく開拓できた。(これで開拓済みは4ルート)