産経新聞朝刊に「朝晴れエッセイ」という読者が投稿する欄があり時折り読ませてもらっている。
先日、昭和20年代に小学生だったとされる(ということは私より先輩)男性が「ぐみの味」と題したエッセイを載せられていた。
久しぶりにグミ・ぐみ(といっても今どきのお菓子ではなく野生の小さく赤い木の実)を2~3粒食べてみて渋さを強く感じて、小学校の登下校の際に食べたグミの美味しさはどこに行ったのかという趣旨である。
戦後間もない頃はグミは子供にとって高級食材で渋さを感じるより美味しさが先だったのだろうかと、人間の味覚の変化を話されている。
先日6月18日のこのブログに、私も60年ぶりくらいに念願のヤマモモを食べてみて酸っぱさを強く感じてしまい、あの美味しさはどこへいったのかと思ったことを書いたが「朝晴れエッセイ」の投稿者の方と全く同感である。
子供の頃野山に自生している実を食べて記 憶に残っているのはヤマモモ、グミ、ユスラ(イスラ)の三種類でどれもおやつ代わりの貴重な自然食だったが、ヤマモモは先日食べることが出来、残りの2種も食べてみたい気はするものの多分味のギャップを感じてしまうのだろう。
あの頃と比較すると世の中に美味しいものが満ち溢れそれが当たり前になってしまった。リンゴやミカンでも甘さが足りないと不味いと感じるようになってしまい、渋さ、酸っぱさ、苦さ等に対する許容度が低くなっているのを強く感じる。
これは全く個人的なことになるが、今ケーキといえば生クリームケーキが当たり前で美味しく軽いさっぱりしたものがいつでも食べられる。しかしあの子供の頃食べたバタークリームのケーキが今でも忘れられないがなかなか手に入らない。
カレーも牛肉の入ったものが当たり前で更に色々な味のものが楽しめるが、子供の頃のたまに食べたあの肉の無い(少ない)カレーの美味しさには敵わない気がする。
美味しいものを得るための努力はどうやら一方で失うものも多くあるらしい。
【ベランダを縁先見立て夕端居(ゆうはしい)】
🔘施設の庭のアガパンサス