厚狭の領主・三沢為虎②

〈6月14日の続き〉
厚狭下津に居を構えた三沢為虎が在邑中、関ヶ原合戦が勃発する。為虎は上方への軍勢先手に加わることを毛利輝元へ嘆願するも入れられず、赤間関(下関)守備に配された。

関ヶ原戦後毛利家の中国地方八ヵ国から防長二ヵ国への減封に伴い、厚狭郡内一万石から、郡内のうち山野井、福田、大持、小埴生4ヶ村700石を新たに拝領、身分も直臣から長府毛利家毛利秀元家臣、いわゆる陪臣となった。

秀元は三沢氏との旧誼を重んじて、自領より2000石を加え以後2700石の重臣として処遇した。
2019年3月30日のこの日記「厚狭山野井が長府藩領の理由」に書いたが、本来厚狭毛利家か熊谷家の所領であるはずの山野井等4ヶ村が長府藩の飛び地となった事は以上の経緯によるものである。

毛利家当主輝元の三沢氏に対する処遇は、織田家との戦争状態以降、驚くほど厳しい傾向が見られる。

「山陽町史」の著者もその理由は不明としているが、私は今読みつつある「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」に記載の、三沢為虎が出したとされる毛利家に忠誠を誓うという起請文辺りにその根源があるような気がするのだが。

当時は山中鹿之介等、尼子旧臣による尼子氏再興を目指す軍事行動が織田軍と呼応して活発化していた時期であり、この経緯については個人的にも未だ興味が尽きない。

何れにしろ厚狭に三沢氏の足跡が刻まれた事は確かである。

家内が初めて育てているあじさい(中々丸くならない?)
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