厚狭毛利家⑲初代元康の足跡②

1月31日のこの日記に続く2回目で「関ヶ原ー天下分け目と毛利氏の戦い」展示図録をひもとく。

この日記に何度か触れたように毛利家3代目輝元には当初、子がなく、叔父吉川元春小早川隆景等の承認のもとに、叔父元清の子秀元を後継者含みで養子にした。

その後輝元に長男(後の秀就)が誕生、慶長3年(1598)8月1日天下人・豊臣秀吉の裁定で秀就を跡継ぎに据えた上で秀元に出雲国石見国(島根県)を与えることが決まった。いわゆる秀元への国割(くにわり)である。
出雲石見は当時の毛利家領地の約4分の1に相当しここに領地を持つ一族吉川氏や国人豪族層に広く動揺を与えた。

慶長3年8月18日豊臣秀吉が、死去すると先のトップダウン国割案は撤回され、秀元側に不利な案が検討され始める。
・この時輝元が元康に、秀元の説得を依頼した書状
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新たな国割案に対して当初秀元側に立っていた安国寺恵瓊が賛成に転じたが秀元は拒絶した。
・この案について輝元が元康の意見を求めた書状、この時元康は療養中のようで、関ヶ原の後に元康が新しい領地である私のふるさと・厚狭を見ずして大阪で亡くなる伏線のような気がする。
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慶長3年1月23日豊臣奉行職石田三成増田長盛の協力で新しい国割が決定、秀元領は出雲、隠岐伯耆(鳥取県)の一部、安芸(広島県)廿日市、で秀吉裁定案から秀元分が少し減少。

然しこの決定も中央で大老前田利家が死去、諸将の石田三成襲撃事件等の混乱により中止再検討になる。

この後、国割再検討計画が進むなか徳川家康が秀吉遺命を名目に、国割の速やかな実行を要求し秀元側に肩入れをした。
・その再検討の過程で逐次相談をすべく輝元から元康に送られた書状
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慶長4年(1599)6月15日輝元は秀元に知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)を発行、長門国周防国吉敷郡(山口県)と実父毛利元清の遺領(安芸廿日市)を与え、秀元が分家独立を果たした。

毛利輝元は元就、隆元と続いた毛利本家の3代目、元康は元就の8男で形の上で叔父、甥の関係になる。年齢は輝元が7歳歳上だが比較的近く、元康の実戦経歴などは比類無いものであり、輝元の身内で格好の相談相手であったと思われる。

この国割の紆余曲折は、中央の政治力学も加わるすさまじいもので、直接間接を問わず影響を受けた者は多く、毛利家内で大きな禍根を残し、関ヶ原敗戦の要因の一つになっていく。

元康は関ヶ原の翌年、慶長6年(1601)2月15日大阪木津の毛利屋敷にて死去した。新しい所領、私のふるさと・厚狭を見ることは叶わず墓は大阪市北区の天徳寺にある。ーーこの日記2019、5、15、厚狭毛利家⑤「毛利元康大阪の墓を訪ねて」参照。

大阪外環状線東大阪から東の奈良方面生駒山を見る。
山頂にはTV放送各社のタワーが林立。
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