毛利秀元④大阪の陣

毛利家は関ヶ原戦後西軍総大将を実質的に担っていた科(とが)で防長二州公称36万石に押し込められ、その内で毛利本家の跡継ぎを輝元の実子秀就に譲った毛利秀元長府藩公称5万石の藩祖として関門海峡を望む長府串崎に居館を置いた。その領地には私が郷里で通っていた厚狭中学校のそばにある山野井村、福田村、小埴生村等が含まれる。(これを書いていると高台にあった中学校と周辺の景色が今も目に浮かんでくる。)

その後毛利秀元は領内の仕置きと併せ厚狭毛利家を含む毛利一門の後見役として重きを成したが慶長13年(1608)毛利輝元の求めに応じ江戸に行き本家の跡継ぎ毛利秀就の後見役を務める。

秀元が江戸に在った慶長19年(1614)方広寺・鐘銘問題から徳川家康が豊臣家に仕掛けた大阪冬の陣が勃発、関ヶ原での過去は既に遠く、秀元は徳川家康に参戦の許可を得て上阪したが、この時毛利軍には戦闘の機会がなく後方支援、普請作業で和議を迎える。

 この後大阪城の堀の埋め立てに端を発し慶長20年(1615)豊臣、徳川の最終決戦大阪夏の陣に至る。

輝元から毛利の先鋒大将を任された秀元は厚狭毛利家2代目元宣等を従えて出陣、西国大名中の一番乗りとなり大阪高麗橋で大阪方と交戦、敵数百を斬るなど活躍し家康、秀忠に大いに称賛され、大阪は遂に落城、豊臣家が滅亡する。

この後秀元は毛利家の中で更に重きをおかれると共に恩讐を越えて徳川将軍家とも密接な関係を築いて行くが、本家の秀就、関ヶ原での遺恨が残る岩国吉川家とは微妙な関係が残ることになる。