大名家の理不尽な話

🔘本題に入る前に、昨日のWカップ・ドイツ戦は素晴らしかった。本音をいうと良くて引き分けと思っていたが反省している。

堂安選手、浅野選手のゴールは見る側の目を覚まさせてくれた気がする。

 

①中国地方の覇者であった毛利氏は輝元の代に関ヶ原の敗戦に巻き込まれ周防・長門二ヶ国(山口県域)に押し込められた。その後大坂の陣が起こり徳川、豊臣が敵対すると天下の趨勢(すうせい)は既に徳川にあることは自明で、毛利家も当然大阪城攻めに参画した。

このとき毛利輝元は万一の豊臣方勝利や、これ迄の豊臣家への恩義を考え重臣の一人・内藤元盛を佐野道可(さのどうか)と改名させ大阪城に入城させた。

大阪落城後内藤元盛は京都郊外に潜伏したが、徳川方に捕縛され毛利に還された。明らかに徳川が毛利を疑い試している訳で、毛利輝元は元盛があくまで勝手にしたこととして切腹させ、その子二人も実際には無関係ながら徳川の目を気にして切腹させた。

②秀吉に仕えた蜂須賀小六を源流とする蜂須賀家は関ヶ原のとき阿波国(あわのくに・徳島県)を領していて当主・家政は領地徳島に在り西軍に属した。嫡子・至鎮(よししげ)は家康に従い東軍勝利に貢献した。このため戦後家は存続し父親家政も何とか助命された。

家政は当時積極的には動かなかったが西軍首脳の求めに応じ北陸の戦場に部隊を出さざるを得なくなり高木法斎という人物を部隊長にして送り出した。

西軍敗戦後、蜂須賀家では高木法斎は勝手な「私戦」をしたことにして籍を削って追放した。その後の法斎の行方は分からず、司馬遼太郎さんは随筆集「古往今来」のなかで法斎は「日本人の性格のなかで、最も面白い典型というべき隠遁者(いんとんしゃ)風の性向のもちぬしだったかも知れない」と書いている。

大名家はその存続のために実に理不尽なことを繰り返している。

このようなことは現代の国や組織でも形を変えて充分あり得る話である。

 

🔘介護棟の屋上庭園、ランタナ