毛利秀元⑤毛利家の系図問題

初代長府藩主で常に厚狭毛利家をバックアップする立場にあった毛利秀元毛利元就4男元清の子として生まれたが、本家3代目輝元に当初子がなく、その才を毛利の両川と言われた吉川元春小早川隆景に見込まれ輝元の養嗣子となった。

これを当時の天下人であった豊臣秀吉に正式に認められ、
その時の裁定は「もし後日輝元に実子が出来た場合は、跡目はその子に譲り秀元には然るべき待遇と領地を与えること」であった。その後輝元に実子秀就が誕生、世継ぎとなり秀元は身を引いたが関ヶ原合戦では毛利本隊を率いる等、長期に渡って毛利本家を支えた。

長府藩主となって後、毛利秀就と秀元の間にはすきま風が吹き始め長府藩が幕府にたいして本藩からの独立を願う動きもあったが実現せず終わった。

寛永18年(1641)幕府が諸大名等から系図、資料等を提出させ寛永20年にかけて「寛永諸家系図伝」を作成した際、上記の経過から萩毛利本家と長府毛利家の提出した系図に差があった。すなわち萩側は毛利本家の家督は輝元から秀就が嗣いだとしているのに対し、長府側では、輝元、秀元、秀就と承継されたとしていた。

この食い違いは萩と長府の対立として江戸時代を通じて長く続き、幕末下関の統治を巡る争いや、明治時代になっての毛利家の歴史編纂作業においての論争として繰り返される事になる。
この事をどう捉えるかは現在に於いても山口県郷土史研究のテーマの一つになっている。