御城之口餅(おしろのくちもち)と豊臣秀長

奈良県大和郡山市にお住まいの、現役時代お世話になった会社の先輩から、奈良県最古のお菓子屋が作る、「御城之口餅(おしろのくちもち)」という餅菓子を頂いた。
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同封のパンフレットに書かれてある由来を読むと、400年以上前、豊臣秀長大和郡山に入部(にゅうぶ)の折りに、連れてこられた先祖が、城の大手門を出て直ぐの、町人街一軒目(口)に店を構え、以来この餅を作り続けていることにそのルーツがあると書かれている。

生菓子なので家内と共に早速頂いたが、小豆のつぶ餡をくるんだ餅にきな粉がまぶしてあり、また一口サイズでとても美味しく一度に4個もいただいた。

豊臣秀長は小一郎と呼ばれた豊臣秀吉の異父弟で、秀吉の招きで農民から侍となり、秀吉の傍らで天下統一を支えた。
秀吉はこの弟の調整能力を高く評価し、官位はほぼ徳川家康と同格にして累進させた。

秀吉が織田信長の後継者としての地位をほぼ確実にした頃、紀伊国和歌山県)を平定した後、その統治を秀長に任せた。
紀伊は雑賀(さいが)や根来(ねごろ)の地侍集団、高野山の領地や熊野等があり「治め難い国」で知られておりその調整能力を評価したものと考えられる。

秀吉が天下統一を成し遂げた後、秀長は紀伊国での実績を買われ、同じく難治の国・大和(奈良県)を領する事になり大和郡山城に入る。
以前にもこの日記に書いたことがあるが、鎌倉以来大和国には守護が置かれず、興福寺がその役目を負い独自の武力集団を動かしていたが、中小領主や寺社領が入り乱れ争乱が絶えない地でもあった。

この時秀長は大和と併せ旧領紀伊、和泉(大阪府)等を加え100万石を越える大々名となり、官位から大和大納言と呼ばれ、
難治といわれた大和を含む100万石を見事に統治すると共に、豊臣政権の柱として諸大名を束ねた。

この経過からすると、この餅菓子を作る和菓子屋のご先祖は、紀州から来られたと想像するのだが。

秀長は秀吉に先立つこと7年、天正19年(1591)に死去するが、もし秀長が秀吉より長命であったならその後の天下の覇権の行方は変わっていたと考える歴史家は多く、組織の理想的なNO2と捉える見方がある。

豊臣秀長を扱った小説に堺屋太一氏「豊臣秀長・ある補佐役の生涯」、司馬遼太郎氏「豊臣家の人々」などがある。
私の書棚から探し出した昭和46年発行「豊臣家の人々」
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司馬遼太郎さんは、この本の「大和大納言」の章の終わりで、
秀長が死去した状況を以下のように書いてその人物像を描写した。
〈(葬儀に)参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実この日から九年後関ヶ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大阪城の古い者たちは、ーーかの卿が生きておわせば。と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった。〉