災害とたたかう大名たち①藤堂藩

藤田達生著 「災害とたたかう大名たち」角川選書を読み終えた。
著者は時折NHKの歴史番組でもお目にかかる歴史学者だが、現代にも重なる、地震・火事・水害・干魃(かんばつ)・疫病等々、度重なる危機、災害に大名たちはどう立ち向かったのかが主題である。

当時の政策を表す「百姓と胡麻の油は搾れば搾るほど出る」という言葉があるが、時にこのような重税を科しながらも有事には財政を傾けてまで行われる迅速な支援の実態が明らかにされる。

著者はこれらを説明する事例としてその多くを、伊勢・伊賀(共に三重県)などで32万石を領した外様(とざま)大藩・藤堂藩のケースを中心に藩が如何に領民を守っていったのかが語られる。

またその背景として、大藩として財政基盤が豊かであったこと、国替えもなく藩主と領民との間に一体感が醸成され高度な行政が可能であったことなどを挙げている。

藤堂藩の藩祖は戦国を生き抜いた武将のひとり藤堂高虎だが、これ程、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物も珍しい。
宇和島今治丹波篠山、津、伊賀上野、等の城を築いて築城の名人の一人に挙げられているが、何より特筆すべきは主人を8度も変えたと言われるその遍歴である。

主な主人だけで、浅井長政津田信澄羽柴秀長、秀吉、
最後に徳川家康に仕え大藩を預かることになる。

作家・司馬遼太郎さんは殊(こと)の外この藤堂高虎と藤堂藩に辛辣であった。
司馬さんが家康を描いた小説「覇王の家」では、秀吉が老衰の頃から家康に豊臣家の内情を伝える間諜の役を勤めたことや、家康臨終の床で懸命に尽くす高虎を描写したあと次のように書かれている。
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『この高虎の気分(懸命に家康に仕える)が、はたして本然の誠実から出たものか、一心不乱の処世であったのか、結局はかれが作った伊勢藤堂藩の藩風を見てもわかる。藩風は藩祖の性格できまるといわれる。

この藤堂藩は、二百数十年後に徳川方が鳥羽伏見で薩長軍にやぶれるや、にわかに寝返り、山崎の丘陵上に砲をすえ、敗走してくる徳川兵をさんざんに撃ちおろしたのである。鳥羽伏見における徳川方の死傷は、薩長との接戦によるものよりも、この藤堂藩の寝返りの方がおびただしかったといわれる。』

災害とたたかい領民を守ること、保身のために主人を裏切ったりすること、その何れもが藤堂藩なのだろう。

☆余談ながら、家康は徳川幕府の体制を整えるに当たり、軍事面では最も信頼すべき先鋒(せんぽう・軍の先頭で戦う部隊)として彦根・井伊藩と藤堂藩を指定して大領を預け、併せて西国外様大名への押さえとした。
この軍事体制が幕末には全く機能しなかったと言える。

八尾空港のフェンスで小さい白い花を咲かせているつる性の植物。
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