「物語・廃藩置県」②

1月26日の続き

幕末に本来幕府側で戦うと思われたにもかかわらず土壇場で薩長中心の官軍側に付いた(幕軍側からみると裏切った)三藩の内残り二藩のその後、

②淀(京都府)藩10万2千石

桂・宇治・木津の三川が合流する地点にある淀城は幕府が京都防衛の拠点として設けた城で権威の高い大名が配置された。

幕末に淀藩主であった稲葉正邦は風雲急を告げる時期京都所司代から老中を勤め、鳥羽伏見の戦いの際も老中として江戸に在った。

鳥羽伏見の戦いで敗走した幕軍は淀城に至り態勢を整えるべく入城を迫ったが、淀藩の留守居はこれを許さず、幕軍は怒って城下に放火し大阪へ逃れた。

幕軍兵士の心境を思うと自分達は誰の為何の為に戦うのかと言う疑問と怒りが爆発したに相違ない。

元々淀藩は戦略上創設された藩であるため、城の近く山城国(京都府)の領地が全体の4分の1しかなく、領地が10ヶ国、25ヵ所に分散していると云う特殊な成り立ちで一旦そのまま淀県になったが、このままの状態が効率面からも許されるはずがなく府県統合で淀県は廃止、京都府やそれぞれの領地毎にその地の県に併合され汚名のみが淀に残った。

彦根(滋賀県)藩35万石

近江国彦根藩井伊家は徳川譜代筆頭でありまた非常時は大老を出す家柄で、西国大名の抑えとして譜代大名としては破格の高禄を得ていた。

幕末尊皇攘夷派の弾圧・安政の大獄を発動した大老井伊直弼桜田門外で暗殺されて後、彦根藩は政治の嵐を身をすくめて避けるような立場を取り、幕府の長州征伐が失敗に終わると更にこの立場を鮮明にし、王政復古が号令されると速やかに新政府への服従を表明し戊辰戦争を官軍側に立って戦った。この変り身には驚く他なく泉下の井伊直弼も言葉が無かったに違いない。

明治4年の廃藩置県によって近江国(滋賀県)には旧藩と同じく6県が誕生、その後の統廃合で大津県と長浜県の2県になり彦根県は長浜県に編入された。さらに明治5年長浜県から犬上県、大津県から滋賀県へその後犬上県と滋賀県が合併して現在の滋賀県が誕生、県庁は大津に決まった。

この頃でも人口は大津より彦根の方が多くまた地形的にも彦根滋賀県の中心に当たるがこの間の統廃合で彦根の名は全く候補にあがっていない。これは新政府の中枢を占めていた討幕諸藩の怨念のせいだと云う説がある。

 

【北風が背中(せな)を急かせる坂の道】

 

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