「幕末雄藩列伝」②彦根藩と津藩

10月26日の続き、

実は「幕末雄藩列伝」には彦根藩は載っているが津藩は載っていない。

徳川家康は幕府を開くに当たって今後の幕府軍の編成で、譜代大名徳川四天王のひとり井伊直政の井伊家、外様大名は最も親しい交際をしていた藤堂高虎を見込み藤堂家を戦の際は最も重要な先鋒軍にする方針で、井伊家を近江(滋賀県)彦根へ、藤堂家を伊勢(三重県)津へそれぞれ配し藤堂家には併せて伊賀(三重県)も任せた。

これは将来西国から来ると想定される反徳川の軍を迎え討つ為の布陣のひとつと言われ京都と西を両方を睨んでいた。その為もあり彦根藩は途中の加増もあり譜代では破格の30万石、津藩は伊賀も含めて32万石の大封を与えられている。

幕末彦根藩主・井伊直弼大老に就任して後朝廷の許しを得ず外国と条約を結んで開国、反対派を徹底的に弾圧した安政の大獄を主導、その反動で桜田門外で暗殺される。

その後家康が危惧した通り西国の外様藩薩摩・長州が反徳川の旗を挙げ京の近くで鳥羽伏見の戦いが勃発、薩長主体の官軍と徳川幕府軍が衝突した。

このときの経緯は複雑すぎて詳細は避けるが、結果的に彦根・津の両藩は官軍側に立ち幕府軍を追討することになる。特に津藩は京と大阪を結ぶ要地・山崎を守備していたが京方面から敗走してきた幕府軍が味方と信じていたところに砲弾を浴びせたと云われる。

この両藩の鳥羽伏見から戊辰戦争にかけての動きをどう受け止めるか色々な見方が出来ると思われるが、歴史の長いスパンで見たときもっと別の選択肢があったのではないかと評される余地は充分あるように思われる。

「幕末雄藩列伝」を書いた伊東潤さんははこの時の彦根藩の行動について『指導者というのはその時代を生きる人々が幸せであればよいというものではなく過去に生きた人々の名誉も考えた上で決断を下さねばならない。つまり先人たちが懸命に守ってきたものをないがしろにするような判断を下してはならない』と書いている。

地下の家康はさぞかし無念であったに違いない。

 

【 古き友  秋の居酒屋   越(こし)の酒】

 

🔘施設の庭のバンパスグラス、いつも真っ直ぐ立つ姿が様になっている。