厚狭毛利家代官所日記㊿慶応2年(1866)④招魂場の建設

四境戦争から凱旋し戦死者も出たところでその霊を祀るため長州藩挙げて各地に招魂場を建設することが進められた。

厚狭毛利家領内に於いてもこれに呼応した動きが11月16日から12月6日までの日記に記録されるているが、全体の字数が多いので現代語に直した要約を以下に記す。

・物見山に招魂場を建設することが決まり、厚狭強義隊、代官所役人、村役人一同で面積を当たり、縄張り等を行い帰ってきた。

・同所には個人所有の土地もあり買い上げることになった。

・建設は19日より取り掛かるが地方(じかた・村々)より4日間に分けて日割りで加勢するようにしたが、その地区に住む厚狭毛利家臣や農兵も同様である。(日割りの地域区分があり)

・加勢に出るものは弁当、鍬など諸道具持参して朝七つ(冬なので現在の5時頃)に出勤すること。

・毎日の進行状況、予定以上の加勢の状況、米や酒の献納、厚狭毛利家当主奥方幼君の見物、等が記される、特に24日は船木より男女凡そ千人が出たとある。

・また子供、婦人が美しくして加勢したとの記述もありまさに山口県民謡「男なら」の世界である。また厚狭の町方からは毛利家居館近くで舞いが披露されお酒が下された。

・12月25日棟上げ予定が2日間延びて更に加勢を募り、村役人からの献金も重ねてあった。

・完成を受けて12月5日招魂祭を挙行する。招魂祭では小銃、大砲の発砲があり事前に藩の吉田、船木宰判両代官所へ申し入れた。

・12月5日は正午より行軍形式で招魂場に行き大宮司による勤めが終わると大隊演習を実施、終了後お酒が下された。

現在の招魂場(護国神社)の墓域

粕汁や藁葺き屋根の囲炉裏端】

 

🔘介護棟の庭シリーズ、キンギョソウの仲間と思われる。