「戦乱と民衆」

磯田道史/倉本一宏/F・クレインス/呉座勇一共著「戦乱と民衆」講談社現代新書刊を読み終えた。

著者は何れも国際日本文化研究センターに所属する日本史関係の教授、准教授で、この本の後半を構成する一般にも公開されたこのテーマに関係するシンポジウム「日本史の戦乱と民衆」の出席者も著者を含めてセンターのメンバーである。

国際日本文化研究センター日文研とも呼ばれ、日本の文化・歴史を国際的な連携のもとに研究したり、海外の日本研究者を支援する大学共同利用機関として京都にあり、大学院大学として院生も受け入れている。

一般的に歴史は指導者や政治、軍事、経済などの分野で語られることが多いが、この本は民衆に視点をおき、「ふつうの人々が戦争をどのように生き延びてきたか?」の問いに答えようとするものである。

著者ごとに古代から幕末までの4つの戦乱をあげ、それぞれの事例を論じているなかで印象的な内容を書き出しておく。

白村江の戦いー天智2年(663)倉本一宏

唐と新羅に滅ぼされた百済の復興を助けるため倭国(わこく・日本)が朝鮮半島に出兵し連合軍に大敗した戦い。

倭は各地豪族が地域の農民を寄せ集めた農民兵であり、国家軍であった唐と新羅連合軍に敵うはずがなかった。

倭国軍兵士の殆どは死亡し一部が捕虜になったが、「続日本紀(しょくにほんぎ)」のなかに遣唐使と偶然出逢ったことで44年後に帰国出来た3人(陸奥国讃岐国筑後国)の事例が記録されている。

応仁の乱ー応仁元年(1467)~文明9年(1477)呉座勇一

同時代に発生した、土一揆足軽は地続きの存在。一揆は「反権力」、足軽は大名の手下で「権力の手先」と位置付けられてきたがその両者は同じ人がやっている。

民衆はその時の状況により反権力的な動きを見せることもあれば、権力の手先として動くこともある。飢饉や戦乱の時代には民衆は生き延びるため手段を選ばなかった。

大坂の陣ー慶長19年(1614)~20年(1615)ーフレデリック・クレインス(ベルギー生まれ)

当時大阪城近郊には家康の許可を得てオランダ人が居住しその記録が残されている。

冬の陣後庶民は「夏の陣」の前に荷物をまとめて各地へ避難した。空き家になった家の多くが牢人やその家族によって占拠されていた。

「夏の陣」後の徳川方の略奪暴行は牢人とその家族に対して行われたと考えられ、民衆側から見ると豊臣方の牢人達が乱した秩序を徳川方が取り戻してくれたという見方がオランダ人の記録に見える。

禁門の変ー元治元年(1864)磯田道史

幕末、京から追放された長州藩が一橋や会津勢力の打倒を企図して京に攻め上り幕府軍諸藩に敗れた。

この戦いで京都市中の6割方が焼け「どんどん焼け」と云われる。

当時の民衆はこの火災の原因を正しく認識して証言記録しており、長州は逃げるに当たって自らの屋敷に火を放っただけで、一橋慶喜の指示を受けた会津藩兵や桑名藩兵が、長州兵の潜伏を防ぐため手当たり次第に放火を行ったことが主原因である。

会津桑名は町衆は勿論、公家や他の大名からの恨みを買い戊辰戦争に影響を与えることになる。

🔘今日の一句

 

足長の影と歩まん冬至の日

 

🔘施設介護棟の庭、マリーゴールド