私の代表的日本人・柴 五郎

月刊誌・文藝春秋には今年8月号から作家で数学者でもある藤原正彦氏が「私の代表的日本人」を連載されている。

第一回が江戸時代の数学者・関孝和、第二回が江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山、そして今回10月号が第三回の柴五郎である。

会津人・柴五郎はあまり世間に広く知られた人物ではないが、日本人の精神を受け継ぐ代表としてみた場合、長州出身の私からみても充分理解出来る人選といえる。

幕末会津藩上士の五男(落城時八歳)として生まれ、藩が賊軍となるなか、家族の女性五人が自決するなど凄まじいまでの苦難を生き抜き、学費無料にひかれて陸軍幼年学校から士官学校を経て陸軍軍人の道を歩み最終階級は大将である。

私が初めて柴五郎という人物に出会ったのは若い日に観た映画のなかであった。

古い(1963)アメリカ映画・「北京の55日」で、まだ若いチャールトン・へストンやデビット・ニーブンなどの出演で中国清朝末期に起きた「義和団事件」を題材にしたもので、外国人排斥を叫ぶ義和団が北京の外国人居留地を包囲攻撃し、55日間籠城の末日本を含む八ヶ国連合軍が到着救援する物語である。

このとき籠城した各国民間人や軍人のなかで中心になって指揮した日本人が柴五郎当時中佐で、映画では若き日の伊丹十三が演じていた。

もちろん初めてこの映画を観たときはこの日本人のモデルが誰か分からず義和団事件日中関係史に興味があったので後で調べてみて柴五郎に行き当たった。

このときの柴中佐のリーダーシップや救援部隊の日本軍の軍規の厳正さが、当時の北京駐在英国大使の心を動かし、これが起点のひとつとなって後の日英同盟締結に至ったとも言われる

会津藩出身ながら最高位の陸軍大将まで昇りつめるが、薩長藩閥に対する恨みは深く心に刻まれていたようでその事が自伝に記されている。

特に幕末途中まで会津と共に長州を討ちながら、途中で薩長同盟を組んで敵対した薩摩に対する恨みは深く、西郷隆盛西南の役で、大久保利通が暗殺に倒れた際は秘かに溜飲を下げたことが「私の代表的日本人」の中に書かれてある。

また柴五郎は太平洋戦争終結の一ヶ月後遺書を書いて刀による自決を試みたが、老齢のため果たせずその傷がもとで三ヶ月後に亡くなったことが記されている。

🔘今日の一句

 

戦場に母子の涙冬隣

 

 

🔘近くの施設の庭、ミソハギのような気がするのだが?