「児玉源太郎 明治陸軍のリーダーシップ」

大澤博明著「児玉源太郎 明治陸軍のリーダーシップ」山川出版社刊 を読み終えた。

私は山口県の出身なので、世間には多少否定的な受けとめがあるいわゆる長州閥について、つい擁護したくなる潜在意識を持っているが、明治維新を経て明治から大正、昭和初期に至る長州閥と言われる人脈のなかで、客観的に見ても児玉源太郎は第一等の人物の一人ではないかと思っている。

児玉は長州藩支藩徳山藩の出身で戊辰戦役の函館戦争に従軍、その後明治陸軍に入り累進する。生涯の友であった乃木希典長州藩支藩長府藩の出身である。

著者は日本政治史が専門であり、ここから分かるように児玉は部隊指揮官、参謀、軍政という軍人に求められる三つのものを巧みにこなすと共に政治家としても嘱目され、日露戦争後は総理大臣候補の一人として期待されながら明治39年(1906)脳溢血で死去する。

著者はなぜ児玉は軍事と政治の両面に通じた稀有な指導者たりえたのかを、リーダーシップというキーワードを使ってその行動を解明しようと試みている。

ここでは児玉の主な業績を紹介しておく。

・熊本鎮台勤務時代、神風連(しんぷうれん)の乱(熊本士族の反乱)や西南戦争(薩摩士族の反乱)に当たりその陣頭指揮で熊本城の死守に貢献した。

・明治陸軍はドイツからメッケル少佐を招き、組織改革や陸軍大学講義の協力を仰いだが、メッケルは将来の日本陸軍を担う人物として児玉を高く評価した。

日清戦争後日本が得た台湾に乃木の後任として台湾総督として赴任、後藤新平新渡戸稲造(にとべいなぞう)などを登用し産業振興、効率的統治、治安維持の実績をあげた。

・桂内閣で文部大臣や内務大臣を経て日露交渉が切迫している折り、格下の参謀本部次長に請われて就任、陸海軍の協力体制を造り上げる。

・日露開戦に伴い、満州軍総参謀長として出征、満州に於ける陸軍の実質指揮を取る。このとき旅順攻略に手間取る乃木第三軍司令官に代わり一時的に203高地攻撃の指揮を取り旅順攻略を成功させた。

・また奉天会戦の直後東京へ出張し、天皇や最高指導部に会い国力の限界、講和の早期締結を強く求めたことは特筆される。

・戦後児玉は総理大臣候補に挙げられると共に日本が得た南満州鉄道会社設立委員長として経済発展を構想した。

その後明治39年4月参謀総長就任、日露戦争での各種課題解消に邁進するが、児玉はこのとき軍備抑制による産業振興優先、陸海軍協調、国務と統帥の一体化などを志向していたとされ、これが実行されていたら日露戦争の弊害と言われる軍部独走を抑えられた可能性もある。

・同年7月脳溢血で55歳で死去

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