「語り継ぐこの国のかたち」②

7月21日の続き

この本の内容で「なぜ無謀とも言える太平洋戦争に突き進んだか」に繋がる部分での二番目の内容。

②昭和の誤りの遠因は日露戦争にある。

日露戦争の勝ちというのは(海軍の日本海海戦は完全勝利だが)陸戦の勝敗では本当の勝ちではない。あのまま続けていれば満州日本陸軍はロシア軍にたたき潰されかねなかった。

日本軍は旅順、遼陽、奉天の各会戦で前線指揮官を含む多くの兵士が死傷し補充もままならない状態にあったがロシアでは続々と補充が行われハルビンで次の会戦を準備することが出来た。

実態を知る満州軍総参謀長の児玉源太郎が日本に急きょ帰り「ぼやぼやしないで、早く講和だ」と政府や軍上層部を叱咤した。

戦費が20億円かかっているがその6割以上が借金だった。

ポーツマス条約成立後賠償金が無いことや樺太の南半分だけの割譲について国民の不満が爆発し大暴動・日比谷焼き打ち事件が起きる。国民には戦争遂行の危うい実態が知らされず、大勝利の国民戦争と夢想していた。

国民は世界に冠たる一等国民になったと自分達を駆り立て夜郎自大(やろうじだい・自分の力量以上に過信する)となり、アジアの国々を下に見るような姿勢が表れる。このようななかで日本を中心にアジアをつくる構想が出て来、後に大東亜共栄圏や八紘一宇のようなスローガンにつながる。

日露戦争の論功行賞では華族(公・侯・伯・子・男爵)が130人以上誕生、勝てば官軍の様相で、華々しい大勝利という神話だけ残り、その華々しい戦史のみ、いわば真実を学ばなかった昭和の軍人を生み出すもとになった。

日露戦争までの明治は「坂の上の雲」のようにものの考え方、国家の運営の仕方も真剣味があって明るい。一番の例が勝っていてもそこで国力を考えて停戦するという判断、通常なかなかあそこで決断して止めることは難しい。判断の中に真面目さがある。ところがその後の日本は真面目さ真剣さが失われていく。

🔘太平洋戦争へもはや引き返せない時点ザ・ポイント・オブ・ノーリターンを考える上で色々と参考になる本であった。

 

🔘一日一句

 

バス待ちに潮の香刹那南風

 

🔘施設の隅に咲くムクゲ(木槿)