「戦争まで/歴史を決めた交渉と日本の失敗」②

11月14日の続き

太平洋戦争に至る道程のなかで日本が世界から「どちらを選ぶか」と問われた3回の重要分岐点について、なぜ日本はより良き道を選べなかったのかを史料を読み込み考えるのがこの本(若者への講義録)の著者の狙いである。

私は何度もこの道程に関する史料や書物を読んできた気がするが、特にこの本で新たな知識になったことや、新たな考え方で参考になったことの一部を絞り込んで書いておくことにした。

①昭和6年(1931)満州事変後、国際連盟が事変の調査のため派遣したリットン調査団の提言。

・従来このリットン調査団の調査報告は、事変は日本の謀略で引き起こされ日本非難に満ちたもので、それ故結果的に日本が連盟を脱退、国際的に孤立するという理解であった。

・然しその報告書は、満州からの日本軍の撤退を勧告はしているものの、南満州鉄道沿線の駐兵を認め、例えば満州に於ける新政府の諮問委員の半数は日本人にする、日本人の満州での日本人の居住権、商租圏を認めるなどむしろ中国にとって受け入れ難いものであり、満州に於ける日露戦争以来の権益を認めるものであった。

・日本は関東軍の軍事行動が自衛行動ではないということと、満州国は自発的な独立活動ではないという二点について同意出来ないとしてこの提言を受け入れず連盟を脱退、孤立化の道に踏み込んだ。

②昭和15年(1940)日・独・伊三国同盟の締結

・この同盟はアメリカを牽制する為のもので、ナチスドイツが欧州を席巻しイギリス本土も危ういという戦況理解のなかで、いわゆる「バスに乗り遅れるな」という合言葉で日本は同盟締結を急いだ、というのが従来からの定説であった。

・然し当時の政策を推進する軍や外務の中堅官僚の史料を紐解くと、日本が同盟締結を急いだのはドイツが欧州で勝つのはもはや当然の事態で、むしろその先を見据えていた。

その場合勝者ドイツは、インドネシア(蘭印)やインドシナ半島(仏印)等の敗戦国(英・仏・蘭など)の植民地や中国、更には日本が第一次大戦後得た旧ドイツの植民地・太平洋諸島(サイパンテニアン、マーシャル等)に対し経済活動を活発化し日本の権益を害する恐れがあり、このドイツの動きをあらかじめ牽制する事を見越して同盟締結を急いだ。

③昭和16年(1941)12月に始まった太平洋戦争直前約1年間の日米交渉

・日本が対米戦を決意した直接的な動機のひとつが、昭和16年(1941)7月の日本軍の南部仏印(フランス領インドシナ)への進駐に対するアメリカの対日石油全面禁輸と在米資産凍結にあることは広く知られているが、日本はアメリカが全面禁輸に踏みきるとは予想していなかった。

・全面禁輸と資産凍結の決定は対日強硬派が影響力を持つ「外国資産管理委員会」で成され、多忙を極めていたアメリカ大統領・ローズヴェルト国務長官・ハルが決定と実行を知ったのは8月末でこの間1ヶ月の時間を空費してしまい、日米相互にとって大きな齟齬となった。

🔘ここに二回に分けて書いた内容は字数のこともあり、この本すなわち中高生の応募者に対する講義内容の極く一部に過ぎず、とても全体を書ききれてないがそれほどこの本の中身が濃いとも言える。

然しこのような内容の講義に、自ら応募して真剣に耳を傾ける現代の若者が多数いることに正直言って良い意味で驚いている。

🔘今日の一句

 

時過ぎて同胞(はらから)想ふ初時雨

 

🔘県有林のハゼノキ