7月16日の続き
この本のあとがきを書いた海軍史研究家・戸髙一成氏が「決定的資料!」という通り海軍からみた太平洋戦争の裏面がかなり表に出てくる重たい資料だが、私なりに重要なポイントを抽出してみる。
①海軍の主流は日・独・伊三国同盟や日米開戦に対して反対の意志を持っていたが、それは陸軍や右翼などのテロの危険に身をさらすことでありその事を自覚していた。また当時の陸海軍の間には構造的な長期に渡る対立があり双方を抑える統制が効いていない。
・三国同盟の話が持ちあがった当初、海軍省は米内光政大将・海相、山本五十六中将・次官、井上成美大佐・軍務局長のトリオで反対を貫いたが米内が海相を去ると他二人も海上に転出し押し切られた。米内に対する質問「この体制が続いていたら徹頭徹尾反対していたか」答え「無論反対していたがでも殺されていたでしょう」
・井上に対する質問「三国同盟になぜ最後まで反対したのか」答え「(他国の戦争に)自動的参戦は嫌だ、という一点にある」
・会を閉じるに当たって藤井茂大佐・元軍務局員の総括「一言で言えば、満州事変以来の日本海軍の歴史は、要するに陸軍との抗争の歴史であったということだ。はげしいことばでいえば、陸軍こそは、日本のナチスであった。それに抵抗したのが、政治力を持たぬ海軍だったのである。」
軍令部第一課長・富岡定俊大佐が開戦時の軍令部総長・永野修身元帥に聞いたこと「なぜ開戦やむを得ずと判断したのか」永野修身の返答「あそこまで引っ張ってきてここで戦争をしないで屈することは日本に内乱が起こることを意味する。陸軍がクーデターを起こす。海軍は自存自衛でやむを得ねば戦うという程度、そこで陸海軍相撃つことになり陸軍が勝つだろう。国民も当時は無責任な勇ましさだった。陸海軍相撃ってから戦争になったらだらしない歴史に残る戦争になる。やはり一致して戦争せざるを得ない、自存自衛のため同意した」
🔘結局日米開戦に至る道は長い間の道のりの結果でもある。満州事変や日中戦争などのどこかに、もはや引き返せない点(ポイント・オブ・ノーリターン)があり、日米相互の国内事情も絡み開戦に至ったと考えられる。
・井上成美が開戦時の海軍大臣・及川古志郞大将を問い詰めた。「なぜ海軍は戦えぬと言わなかったのか、千載の恨事なり」及川古志郞の返答「全責任は自分にある。海軍は日露戦争東郷元帥以来戦争は出来ぬは部内のタブーであった」
・昭和16年9月、日米開戦に向けた意志決定の御前会議直前、永野修身軍令部総長が天皇陛下の御下問に奉答した内容「今日の日米関係は病人に例えると手術するかしないかの瀬戸際に来て居ります。手術しないでこのままにしておけば段々衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば非常に危険ではあるが助かる望みもないではないーーー統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術をしなければならないと存じます。この意味でこの議案に賛成しておるのであります。」
🔘少なくとも海軍は成算・勝つ見込みがあって日米の戦争に突入したのではないことがよくわかる。成算のない手術(戦争)と分かっている以上、何としても一致団結して病気の進行を極めて早い段階で絶対に止めなければならない。
🔘私自身は太平洋戦争のポイント・オブ・ノーリターンは盧溝橋事件から始まる日中戦争にあると思っており、この病気の根源は中国大陸にある。
🔘一日一句
夕凪にシャツ脱ぎつつの大欠伸(おおあくび)
🔘施設花壇のペンタス