〔厚狭毛利家代官所日記は残念ながら文久3年(1863)10月から元治元年(1864)8月までが欠落している〕
長州藩では幕末この当時を表す「元治の大局(げんじのたいきょく)」という言葉があり、この頃時勢は大きく転回を始める。
・元治元年6月5日
京で池田屋事件、新撰組によって長州藩士など多数斬殺される。
・同年7月19日
禁門の変、長州藩大挙上京して御所を攻撃、会津薩摩等に敗れる。
・同年8月2日
長州藩は朝敵となり第一次長州征伐始まる。
・同年8月5日
米英仏蘭、4ヶ国連合艦隊が下関に来襲、上陸して砲台を占拠。
・同年9月
内憂外患の危機に際し長州藩内で政争があり、これ迄の尊皇攘夷派(正義派)政府員が排斥され幕府恭順派(俗論派)が実権を握る。
・同年11月11日
禁門の変の責任者として三家老切腹、四参謀斬首、藩主父子謹慎して幕府征長軍に恭順を表す。
・同年12月16日
藩俗論派政府に対し高杉晋作などが下関で挙兵、以後正義派・諸隊(奇兵隊など)と俗論派政府軍との間で内戦・太田絵堂の戦い。
・慶応元年(1865)2月2日
高杉晋作など正義派・諸隊側が長州藩の実権を握る。以後第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争を経て明治維新迄一貫して尊皇倒幕を藩是とする。
🔘このような激動下、ふるさと厚狭を治める厚狭毛利家当主・毛利能登(元美・もとよし)は元治元年9月19日政争の後実権を握った俗論派政府に迎え入れられる。
・代官所日記9月21日の記録
「今夜4つ時(午後10時)御飛脚が到着、一昨日19日に旦那様(当主・能登)が加判役(かはんやく)を仰せ付けられたと知らせが有った。詳細は別紙にある」
※加判役とは長州藩の家老職のことで行政の執行に当たり署名して責任を負う。
🔘この厚狭毛利家当主の俗論派政府への参画という選択が厚狭地域や厚狭毛利家の将来にとって決定的なものとなっていく。
写真は子供の頃「猫じゃらし」と呼んでいたような気がするが、掌で包むと独特の感触と動きがあり千切って遊んだ想い出がある。
正式な名前はエノコログサと云い犬の尻尾に由来する名前らしい。
【猫じゃらし こそばゆい手が よみがえり】