中国者(ちゅうごくもの)の律儀(りちぎ)

「中国者の律儀」という言葉がある。
この場合の中国者というのはもちろん、大陸の中国を指すのではなく山陰、山陽の中国地方ということである。
また律儀とは義理かたく実直なことをいう。

この言葉の最初は中国地方の太守・毛利氏を表す事から発し、信長の傘下で敵対しその後天下人となると西国の抑えとして毛利氏に大いに期待した豊臣秀吉がことさら口にした。
これは個人的見解だが、秀吉は自分の死後のことを考え毛利氏が豊臣家に背かないよう繰り返し念押しをしておきたかったのかもしれない。

先日このブログに書いた「播磨灘物語」でも出てくるが、毛利氏は反信長勢力の中心であった大阪本願寺を多量の物資を搬入して変わらず助けたし、信長勢力(実質羽柴秀吉)と毛利が直接対決するようになると、その中間地域に居る毛利氏傘下の小豪族を見棄てることがなく支援した。

秀吉が本能寺の変の情報を聞いたことで名高い高松城の水攻め。
当事者の備中高松城主・清水宗治は戦況不利な中、開城すること無く毛利氏を信じて持ちこたえ、最期は織田と毛利の和睦が成るなら自ら犠牲になろうと切腹して毛利の律儀に応えた。

毛利氏はこの清水宗治の忠義を無にせず子孫を厚く遇し、清水氏は毛利家中の上士・寄組(よりくみ)として明治維新迄変わらず続くことになる。

私が史料などで追跡しているふるさとを治めた毛利の分家・厚狭毛利家は、関ヶ原合戦の後に家祖・毛利元康が10500石の領地を給されたが、二代目元宣(もとのぶ)の代に馬揃えでの不備を咎められ6700石に減石された。

安政2年(1855)の分限帳(ぶげんちょう・家臣の給禄帳)を見ると厚狭毛利家臣は230家ある。
毛利家中では禄高100石当たり2人を陪臣(ばいしん・家臣の家来)数の原則としており、これから見ると厚狭毛利家では家祖の禄高から実質領地は半減に近い状態ながら家臣の数は殆んど減らしていないように見受けられる。

まさしく中国者の律儀だがその分財政は窮迫、家臣の禄高は低く筆頭家老でも100石程度、中程度であれば10石台が過半を占めている。

律儀とはなかなか苦しいものでもある。

🔘ソメイヨシノの樹にはこの暑さのせいもあるのだろうか所々に赤や黄色に変色した葉が見られる。

【病葉(わくらば)に 朝のひかりは 容赦なく】