厚狭毛利家代官所日記㊽慶応2年(1866)②献金による士分取立て

長州藩が幕府の大軍と戦う「四境戦争」に当たり庶民に対しても軍用金の要請が色々な形でなされている。通常多額の献金に対しては酒肴で饗応したり名字や帯刀を許すことで応えるケースが多い。

慶応2年は下関攘夷戦争、太田絵堂の内乱、四境戦争と続く戦乱で厚狭毛利家の財政は極度に窮迫していたと考えられ、領内の庄屋クラスに多額の献金を要請、その見返りとして4人の士分への取立てが記録されている。

・河口宗市郎~銀12貫献金、中小姓通、高10石

・杉山弥兵衛~銀6貫献金、表通、高5石

・古谷虎之助~同上

・笠井仙吉~同上

🔘当時の金1両は銀60匁(もんめ)であり銀6貫は金100両に相当する。1両が現代の貨幣価値でいくらになるかは物によって異なる為なかなか難しいが、造幣局がそば代をもとに試算したものを参考にすると1両約13万円として100両の献金は1300万円、200両の献金は2600万円に相当する。

🔘当時の分限帳(ぶげんちょう・身分給禄を記録)による厚狭毛利家家臣の身分は、

・家老、番頭(ばんがしら)、中臣通(ちゅうしんどおり)、中小姓通(ちゅうこしょうどおり)、表通(おもてどおり)、足軽、中間(ちゅうげん)、と順に区分され、その内明確な士分は表通以上になる。

従って現代の価値で1000万円以上を投じて最下級の武士身分となり、2000万円以上を投じてその次の身分を得たわけである。

但し厚狭毛利家はあくまで萩毛利本家の家臣であり、厚狭毛利家家臣は陪臣(ばいしん)身分になる。

🔘身分社会のなかで身分を金で買っている訳で、戦乱や貨幣経済の進展により既に体制が崩壊しつつあったことを如実に示しており、明治維新など何らかの革命が不可避であったことがこの記録から充分読み取ることができる。

🔘しかしこの年からちょうど10年後明治9年(1876)新政府は士族に対し廃刀令秩禄処分(ちつろくしょぶん・士族等に与えられた家禄を廃止して公債を与える)を相次いで実施した。4名が高額の献金で得た見返りは皮肉なことにたった10年でほとんど無に帰してしまうことになる。

 

【大根(だいこ)引き穴に蓋する枯れ葉かな】

 

🔘健康公園のモチノキの実