「神戸の歴史」②一ノ谷合戦

3月26日の続き

私の住む神戸辺りは九州西国から軍を催し京を目指す場合、京や畿内(きない・京の周辺諸国)を守る軍との衝突を起こしやすい地点に当たり幾度か全国規模の戦いの舞台になった。

その一つが源氏と平家が争った一ノ谷の合戦である。

木曽義仲に逐われ都落ちした平家は九州大宰府で勢力挽回を期して軍を養い東上を開始、源氏との小競り合いを備中(びっちゅう・岡山県)、播磨(はりま・兵庫県)で制し一旦四国・屋島に本拠を置いた。

その後亡き平清盛が都を一時期移したこともある平家にゆかりの摂津国(せっつのくに・兵庫県東部)福原一帯に陣を敷き都を窺う勢いを示した。

平家討伐の命を受けたのは源範頼義経である。福原は旧山陽道が通っており、範頼は東の生田森から義経丹波(たんば・兵庫県北部)から播磨(はりま・兵庫県西部)を迂回して西の一ノ谷から、日時を決めて同時に山陽道の東西から攻撃する作戦が実行された。

この時義経は自軍の本隊を予定どおり一ノ谷に向かわせると共に自らは少数の騎馬隊を率いて山越えを南下、鵯越から福原へ奇襲をかけた。

結果的にこの奇襲が平家全軍崩壊のきっかけになり源氏の勝利、平家は最後の決戦地・壇之浦へ落ち延びることになる。

この戦いでは現在の神戸市域いたるところが戦場になったとされるが、なぜこの戦いを例えば福原の戦いと云わず一ノ谷合戦と称するのか古来より諸説あるらしい。

義経は私が神戸に来て数回登ったことのある、一ノ谷の北後方にある鉄拐山、鉢伏山から一ノ谷へ出て奇襲をかけたという説もある。

この一ノ谷合戦には唱歌・「青葉の笛」に唄われた平家の若武者・平敦盛が源氏の武将・熊谷直実に討たれる有名なエピソードが遺される。

♪︎♪︎ ♪︎一ノ谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛♪︎♪︎♪︎

 

 

【悲話伝う須磨古戦場東風(こち)わたる】

 

🔘施設の庭のキイチゴの花、どんな実を付けるのか楽しみにしている。