厚狭毛利家代官所日記No58慶応3年(1867)⑥頼母子(たのもし)講

頼母子という変わった言葉がすんなり耳に入って来るのは私も含めてそれなりの年齢以上の人かもしれない。

この頃の厚狭毛利家では下関攘夷戦争、長州藩内戦、四境戦争と打ち続く戦乱で出費が重なり種々の金策に奔走している。

4月の記録にその一環で厚狭市(いち・現在の厚狭本町一帯)の商家を中心に頼母子講(たのもしこう)を作り、その金を献金させることに取り組んでいることが書かれている。

頼母子講とは本来地域の住民が協力して金銭を出し合い相互扶助するもので、現在も一部の地域で残されている。

厚狭毛利家ではこの取りまとめを厚狭市(いち)を代表する富豪・枝村助之進に頼むことにした。

「山陽町史」にも記載があるが、枝村屋は厚狭川の東岸にあって酒造業を営み、代々庄屋や市(いち)年寄を勤める家で現在も残る同家の沈流亭(ちんりゅうてい)には、朝鮮出兵の為九州へ向かう豊臣秀吉が立ち寄り同家の酒を賞味したとの史料が遺されている。

枝村屋は以下の通りにして頼母子講を作った

・一口は銀750匁

・年に2度4月と10月実施

・集めた講の人数は23人(厚狭毛利家と枝村屋は当初20人を目処にしていた)

これで計算すると1回で集まる金額は銀17250匁、相場の変動が激しいので一概に云えないが仮に1両を銀60匁で計算すると287両余りとなる。

詳細は書かれていないが前後の状況から、初回の頼母子の金を金策に困っている厚狭毛利家に渡し、以後仲間内で受け取りを廻していくようにしたと考えられる。

これを受けて厚狭毛利家では御用所にて枝村助之進に対し肴三種付きで御酒が下された。

🔘この内容を見ても米に依存する武家社会が商品経済の発達や戦乱で苦しく、反面その恩恵を受ける商家などの経済力に頼らざるを得ない実態が見えてくる。

 

【春霞起重機船の蟹に似て】

 

🔘施設の園芸サークル畑のサヤエンドウ