河内から兵庫へ、楠木正成のことなど

長く住んだ大阪の河内・八尾から兵庫県神戸市西部(旧播磨国・はりまのくに)に移り住むことになった。
大阪府旧国名で云うといわゆる摂河泉(せっかせん)三国の摂津、河内、和泉になるが特に河内国一帯の古くからの拠り所としては「河内音頭」と「楠公(なんこう)さん」が挙げられる。

楠公さんとは大楠公(だいなんこう)とも云う楠木正成(くすのきまさしげ)のこと、ちなみに小楠公とは正成の息子・楠木正行(まさつら)を云う。

楠木正成鎌倉時代の末期、河内を地盤に反鎌倉幕府の旗を挙げ南北の朝廷が並び立った時代に南朝後醍醐天皇の忠臣として語り継がれる。

南朝方のいわゆる「建武の新政」が挫折すると、負け戦と悟りつつ九州から京を目指す足利尊氏軍を兵庫に迎え討つため出陣し、息子正行を故郷の河内に帰した後、一族郎党挙げて湊川(みなとがわ)で戦い最期を遂げる。

この事を題材に戦前よく唄われた「大楠公」という唱歌があり、私の幼い頃母親が耳許でよく聴かせてくれた記憶が残っている。

その2番は
♪︎♪︎正成(まさしげ)涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)
呼び寄せて
父は兵庫に赴(おもむ)かん彼方(かなた)の浦にて 討ち死
にせん
汝(いまし)はここまで来つれども とく(疾く)とく帰れ
故郷へ♪︎♪︎
ーーー語り継がれる「西国街道桜井駅の別れ」である。

今ではほとんど知る人はいない歌だと思うが、河内から兵庫へ引っ越してきたことで何かの縁と思い書かせてもらった。
尚、楠木正成神戸市中央区湊川神社に祀られている。

🔘歩きの途中に見かけた花