「神戸の歴史」③湊川(みなとがわ)の合戦

3月30日の続き

西国からの軍と都を守る側との間で神戸の中心部が戦場になった歴史にはもうひとつ有名な戦いがあり、それが楠木正成が戦死した湊川の合戦である。

後醍醐天皇が親政を目指して各地の豪族を糾合し、元弘3年(1333)鎌倉幕府を倒した建武の中興は次第に諸国の武士が離反し、その棟梁に足利尊氏が担がれ大規模な内戦が続いた。

尊氏軍は一度は京を手にするも天皇方との合戦に敗れ西走し九州大宰府に至る。ここで兵力を整えた尊氏は建武3年(1336)5月水陸両面から東上を開始、天皇方は新田義貞楠木正成を中心に兵庫の地でこれを迎え撃つ。

戦いは10万とも云われる圧倒的な兵力を持つ尊氏軍が水軍兵力も有効に使って、新田軍と楠木軍を分断、孤立した楠木軍は力戦奮闘して全滅、正成は一族28人と共に自刃、義貞は敗走した。

湊川合戦の名は湊川一帯が主戦場であったことにより、楠木正成はこの死により忠臣としての名が永く歴史に語り継がれることになった。

楠木正成がこの戦いの直前、死を決したうえで嫡子・正行(まさつら)を故郷の河内国(かわちのくに・大阪府)へ帰す場面は「桜井の別れ」としてあまりに有名な逸話であり、これらの歴史をもとにした戦前の唱歌「大楠公の歌」は今でも歌われ続けている。

楠木正行は父の跡を継いでこの後、後醍醐天皇南朝方の中心的武将として戦い続け正平3年(1348)四条畷(しじょうなわて)の合戦で戦死する。

🔘健康公園のなかの小さな林に咲いていてみどりの中でその部分だけピンクが浮き出て見える。画像検索ではカムラサキツツジというツツジの仲間と教えられた。