ふるさと厚狭の石炭①

山口県は地下資源である石炭に恵まれた地域で大嶺炭田や宇部小野田炭田など主に県の西部を中心に炭鉱が開発され明治以後の産業発展に大きく貢献してきた。

私は厚狭の山川地区にある厚狭中学校に通ったのだが、その通学路は所々陥没した蓮沼になっており雨が降ると道路が冠水し迂回を余儀なくされた。
これが炭鉱の跡地だったことは後に知ることになり、この縁もあり厚狭にも石炭採掘の歴史があったことを書いておきたい。

この兆しは藩政時代に既に見られ記録によると遅くとも正保4年(1647)には厚狭の隣、舟木村について「舟木石炭は干した漆に似て、当所では薪、灯として用いる」との記述がある。

長州藩の経済力を飛躍的に高めたものに長州の三白といわれる米、紙、塩がありこれらを大阪市場で販売して財政を賄っていた。

この内の塩の生産で石炭を燃料として用いる方法が主要な産地の三田尻(現在の防府市)塩田等で実用化されると、俄然石炭が注目され始めた。
当時この石炭は九州からも入っていたが藩では自給を促進し
当時は宇部小野田地域厚東川や有帆川周辺から船で積み出され周辺の村の経済を潤した。石炭業は藩の許可を得て行われその一部が銀で上納される仕組みである。

この間厚狭では宇部小野田地域程の規模はないものの元文2年(1737)には末益村で石炭が出るとの記録があり、その後荒草(あらそう)や山川地区で厚狭毛利家も加わった小規模な採掘活動が見られた。

その後石炭の重要性は年々高まり、幕末期になると塩田に加えて蒸気船の燃料や製鉄原料としても引き合いがあり、明治元年長州藩では厚狭のとなり船木に石炭局(石炭方)を設置して生産販売を統轄させた。
この石炭局による石炭増産活動により厚狭の石炭も組み込まれて行くことになる。

◎我が家の裏に植えている桔梗、今年は「麒麟が来る」明智光秀で桔梗紋が脚光を浴びている。光秀は水色桔梗を旗に染めていたが、この桔梗は薄紫で水色まで薄くない。
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