ふるさと厚狭の寝太郎物語③最終回、寝太郎とは何者?

6月9日の続き

厚狭川に堰を設け水路を掘削して荒れ地を美田に変え、寝太郎として伝説になった者は一体どのような人物なのだろうか。
残念ながら今までにこの答えを明確に示す史料や研究は見当たらない。

寝太郎を顕彰する「寝太郎荒神社」

荒神社に寝太郎の名が冠せられていることを、初めて公的な文書に見ることが出来る天保13年(1842)、長州藩が藩内各地の民情を報告させた「防長風土注進案」には同時に寝太郎に関する記述が以下のごとく記されている。

厚狭郡内 末益村
「中古大内家、四箇国の武将たりし時に當って、賤(しず・身分の低い)の男に一人の異翁あり、世渡りの生業を事とせず、常に寝るを要とし萬(よろず)の工夫する事、天性の性質たり、爰(ここ)において世人その姓名をいわず、寝太郎、々と呼ひしと也、終に灌田の工夫をこらし、これに厚狭川の流れを引くものならば多くの田園となり、行く末此の里の繁栄ともなるへしと、寝食を忘るること数十日終に川上沓村といえる所に堰を工夫しーーー」

これが全ての伝説や昔話の原点といえるもので、ここから色々な話が派生していくが、残念ながら核心に至るものはあまり無く、わずかに大内家の治世というくだりが注目される。

此のほかに厚狭には寝太郎について二つの私的文書
・鴨庄 縄田文書
・石丸 藤本文書
が存在するが、山陽町教育委員会発行の「山陽町史」「山陽史話」で寝太郎の部分を執筆されている郷土史家・江沢能求氏が史実として観た場合の信憑性を明確に否定されている。

私は江沢氏が書かれた「寝太郎」は今までの寝太郎研究の中では最も優れたものと評価しているが、この江沢氏の記述の中でも寝太郎の具体的な人物像を形造るまでには至っていない。

最近千葉大学井上孝夫教授が
・寝太郎を禰(ね)太郎と表記してあるケースがあることからネは子(ね)であり子の星に通じ北極星、妙見信仰へ、
・太郎はタタラを操る男、すなわち製鉄の民につながる。
などから寝太郎は妙見信仰を担う製鉄民だったという説を
「寝太郎伝説の深層構造」として発表されている。

然しこの灌漑開拓事業を通じて受益するのはあくまで農民で、農を基盤とする国人、領主層であり、個人的には井上教授の説は飛躍があるように思われる。

◆私は歴史研究者ではないので推論を許して欲しいのだが、、、
子供時代に実体験、目の当たりにした灌漑システムの状況と、史料を読み込んだ上での考察とを併せた私の結論は以下の通り。

これほどの大事業が成功し、大きな利益を地域にもたらしたにもかかわらず、伝説以外にその具体像が残っていないのはなぜか、それは敗者になった者だからではないだろうか、勝者が敗者の事績を否定するのは古今東西を問わない。

また中世にこのような大事業を人力主体で遂行出来るとすると、農民集団や、地頭、国人クラスでは資金力、技術力、動員力で力不足といえるのではないか、もとよりこれらの人々の支持協力は絶対条件といえるが。

時代とこれらの条件を併せると、合致するのはかつてこの地域を支配した
・厚東・棚井に本拠を置いた長門国守護職・厚東氏
・山口に本拠を置いた周防国長門国守護職大内氏
が挙げられる。両者とも地理的条件などから対外貿易を行っていたことが伺え、資金力としても裏付け出来る。

大内氏は陶氏の謀叛で滅亡し、その陶氏を討ったのが毛利氏であり、毛利氏は謀叛人を滅ぼした事を名分にしており、「注進案」に大内氏時代との記述を許しているように、殊更大内氏を否定する立場にはないように思える。

然し厚東氏は南北朝末期~室町初期、明らかな権力、武力闘争で大内氏に敗れたのであり、周防が地盤の大内氏は厚狭を含む長門が地盤の厚東氏を滅亡させた後、長門国の統治に腐心する必要があった。

また厚東氏は詳しい史料が乏しい中で、厚狭の松嶽山正法寺に梵鐘を寄進したり、正法寺の寺領が地頭等に押領(横領)されたものを回復させたりした事が知られており、本拠地に極めて近いことからも、大いに厚狭に縁がある。

以上のように厚東氏とその傘下の領主クラス、農民集団が最も寝太郎に近い人々と考えるのが私の立場である。
(3回で終えるべく少し長くなりました)

◎娘が「母の日」に家内に贈ってくれたカーネーション