司馬遼太郎「梟の城」と作家・黒岩重吾②

5月19日の続き。

昭和34年(1959)に刊行された「梟の城」は司馬遼太郎さん自身初めての長編小説で、直木賞を受賞することになり新聞記者との2足のワラジ生活から念願の作家に専念するきっかけとなった。

この作品は世間が持つ伊賀、甲賀の忍術という漠然としたイメージに対し、司馬さん自身の着想を交えて、「忍(しのび)の者」という概念を新たに作り出し、伊賀や甲賀の土地柄から出て、独立した精神で世を渡った特殊技能者という姿が世間に立ち現れてくる、画期となったように思われる。

司馬遼太郎さんは自身の職業である新聞記者の使命感を伊賀忍者の純粋さに見立てたと解されている。
その事を表した小説中の一節
「諸国の武士は伊賀郷士の無節操を卑しんだが、伊賀の者は逆に武士たちの精神の浅さを嗤う。伊賀郷士にあってはおのれの習熟した職能に生きることを人生と全ての道徳の支軸においていた。ーーー」

物語は、、、〈織田信長による伊賀攻め「天正伊賀の乱」の後、主人公・葛籠重蔵が隠とん生活の中で天下人「豊臣秀吉」暗殺の使命を負い、幾多の試練をくぐり抜け秀吉の居城・伏見城への侵入を果たす。
そこで見た秀吉の老いの姿にとんだ茶番であったと自身を納得させ、暗殺の実行を止めて引き揚げる〉
ことで終わる。

小説の中で忍者が使う合図の笛を梟笛(きょうてき)と呼んでいるように、梟はその夜行性もあって忍者を表す。元々この小説は宗教専門紙に連載され、原題は「梟のいる都城(とじょう)」だったらしく、内容から見ると個人的には原題の方が良いように思うのだが。

番組の案内役である黒岩重吾さんは最初に甲賀郡から伊賀盆地を見下ろす御斉峠(おときとうげ)に立ち、其処から伊賀を回られたようだが、私もゴルフをやる関係で時折大阪から伊賀や甲賀に出かける事が有る。

来てみると昔と大きくは変わっていないだろうと思われる懐かしい感じの山あいの農村と、郷士屋敷と見紛う風景が拡がっており、例えば主人公・葛籠重蔵の師匠・下柘植(しもつげ)次郎左衛門の下柘植が地名として普通に存在していることについ感慨を覚えてしまう。

司馬さんは初期の西域もの、上方(かみがた)侍もの、この梟の城のような忍者もの等から助走をつけて、歴史小説の国民的作家、更には「司馬史観」と呼ばれる文明批評家へと飛躍された。

私は何回も、何回もその「司馬史観」から頭を殴られた。

◎歩きの道中でたまに通る家と家の間の小道、今日通ってみると突然塀の上からバラが顔を出していた。
やはりバラは真紅が最も風情がある。
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