厚狭毛利家代官所日記⑯文久元年①領内商人の朝鮮漂着

文久元年(1851)分の主な出来事を現代文に直す。

10月7日の記録
舟木町(ふなきまち)大場屋源治郎が船の難破に逢い、朝鮮国に流され、そこから留守宅へ書状を出したとの事、庄屋・植野徳右衛門より写しを以て届け出があった。

〈書状の写し〉

清末屋(きよすえや)姉様 親類中 宛

前文挨拶略~~、当春出国より庄内・仙台・秋田へ行き売買状況も良くその利益110両ばかりもありました。~~~
過ぎる6月25日新潟迄戻ったものの便船が無くようやく7月27日に出帆しました。
能登輪島沖より29日南風(はえ)が激しく8月4日朝5つ時(8時)朝鮮国慶尚道(けいしょうどう)下四洞という所で破船、命は助かりましたが彼地から送り出され、現在は釜山港(ぷさんこう)の対馬屋敷(つしまやしき)に引き渡しになり私については不足が無く安心して下さい。

只心掛りは留守中に家名が断絶してしまわないかの事で、ご本家にお頼り申します。その間子供についても他へ預ける等どの様にしても生活が成り立つように、全てご本家からの指図を請けるべきと存じています。

私も大公儀(江戸幕府)様へお達し、その上ご城下表(萩・毛利藩)へ掛け合いした上でなければ帰国が出来ない様子、それ故帰国は明年4~5月頃になると思われます。~~~

御組合中、その他出店中、親類中へも宜しくご伝言遣わされるように。

8月17日付け
大場屋源治郎 朝鮮国釜山港にて 但し書き〈凶事大急用〉

11月3日の記録

舟木市(ふなきいち)村役人一同の名前で、舟木宰判(ふなきさいばん・萩藩の行政区分)の勘場(かんば・役所)大庄屋宛てに、大場屋源治郎についての身元照会に対する回答書面が以下の内容で発行されている。
・村内の人間で櫛(くし)を商うものに間違いないこと。
・(帰国に向けて)宜しくご沙汰願います。

◎その後源治郎が無事帰国出来たかについて文久2年から3年にかけての代官所日記も読んでみたが見当たらなかった。11月3日の記録からも手続きは進んでいるようで帰国は叶ったものと思われる。

◎封建時代といわれる時期にあっても長州商人の活躍は目覚ましく、櫛の商いで全国を飛び回るなどその進取の気性は注目に値する。

◎朝鮮国・釜山からの手紙に記された家族を想う気持ちは時代を越えて胸に迫るものがある。
清末屋が源治郎の本家に当たるようで、当時は女主人(源治郎の姉?)であったと思われる。

対馬の領主・宗(そう)氏は豊臣秀吉朝鮮出兵の時代から日本の対朝鮮国の窓口役を担っており、徳川時代も同様で釜山に倭館(わかん)と呼ばれる屋敷を構えていた。
大場屋源治郎はこの倭館に移されていたと思われる。
ふるさとの先人がこの数奇な歴史を持つ対馬・宗氏と接点が有ったと思うと少し不思議な感慨を覚える。

◎それにしてもこの時代、旅に出るということは現代では想像つかない程危険なものであった事がよく分かる。

◎近くの図書館の玄関脇に植えられている河内木綿の花