ふるさと厚狭・鴨庄(かものしょう)①

私は山口県厚狭郡山陽町(現在山陽小野田市)厚狭鴨庄に生まれた。現在は住宅が結構建って来ているが子供の頃は稲作中心の典型的な田園地帯であった。
厚狭川河畔から見る現在の鴨庄一帯、奥は松嶽山


鴨庄は言い伝えでは京都の賀茂(鴨)神社の荘園(しょうえん)であったとされており、厚狭の街の北東には鴨神社が祀られている。

子供の頃からこの話には興味がありその言い伝えは本当なのか?、どういう経緯があるのか?を折に触れて当たって見ていたものの、はかばかしい結果は得られていなかった。

そんななか先日「山口県の歴史」という本を図書館で借りて読んでいると、山口県の古代荘園を表した地図に「鴨荘」として生家のある一帯が図示されていた。
厚狭郡の厚狭川の右岸に鴨荘があり丁度現在の大字(おおあざ)鴨庄域になる

これで言い伝えは「間違いないな」と思わせるものがあり、意を決して先ず京都・上賀茂(かみがも)神社(賀茂別雷神社・かもわけいかづちじんじゃ)に問い合わせしたところそれは下鴨神社だろうとのことであった。

再度下鴨(しもがも)神社(賀茂御祖神社・かもみおやじんじゃ)に確認したところ神社の資料館館長の方から懇切な回答を頂き下鴨神社の荘園であったことがはっきりした。

その前に荘園とは何かを整理すると、

奈良時代から始まる律令制度は公地公民が原則で土地や民は国のものであった。

【公地公民制を実行するための区画整理事業が条里制と呼ばれるもので横方向の区画を北から1条2条とし縦方向の区画を東西何れかから1里2里と数えて区切りその中を細分化して民に割り振る。

この条里制は全国規模で半世紀にわたって実行されその遺構は各地にみられる。
ふるさと厚狭にも鴨庄を含んだ大規模条里制の遺構が残っており現在の道路の一部に比定され、古くから開けた土地で荘園化する素地があったことが分かる。】

しかし時代が進むと耕地不足が深刻になり、開墾の促進を図るため段階的に土地の私有化が始まり、貴族、寺社、豪族等は資本を投下して私有地を拡大、それに加え中央や地方の官と結び付き色々な税の減免を獲得する。
これ等の経過を経て出来た大規模私有地が荘園と呼ばれる。

鎌倉幕府室町幕府を通じ設置された守護・地頭はこれまでの国司・郡司に代わり武力で各地の荘園を徐々に侵食無力化していき、更に戦国大名の出現で衰微が決定的になる。

前段が長くなりすぎたので下鴨神社からの内容は後日書きます。

余談ながら鴨庄は「かものしょう」だが親の世代はみんな「かもんしょう」と言っていた記憶がある。

◎これはアヤメの仲間のように思えるのだが。