太融寺(たいゆうじ)・淀殿(よどどの)の墓

北川 央(きたがわひろし)著 「大阪城ー秀吉から現代まで50の悲話」新潮新書 を読み終えた。
著者は大阪城天守閣学芸員を長く勤め現在は館長とのこと。
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題名にある通り秀吉時代から現代まで大阪城に関連するエピソードや事件などの裏話の小編を50話まとめたものである。

その中で私も身近に出会っていた疑問がこの本で解決した件を書いておきたい。

大阪市内北区太融寺町に太融寺(たいゆうじ)という名の真言宗の大寺がある。数年前この近くで関西に住む中学同窓会がありその序でに幹事の案内で立ち寄ったことがある。

寺の説明文や碑文等を見ていくと開創は1200年前、弘法大師が庵を結んだことにあるとされ、嵯峨源氏(さがげんじ・嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源姓)左大臣源融(みなもとのとおる)が堂塔伽藍を建立して諱(いみな)を採って寺名とされたとのことであった。

境内を見ていくと片隅に豊臣秀頼の母で大阪落城の折りに共に自害した「淀殿の墓」とされるものがあり、なぜここに墓が有るのか不思議に思えた記憶があり、この本の第26章「淀殿の墓」にその答えが書かれてあった。

大阪城の東に近接する鴫野(しぎの)に弁天島という地名があり弁財天が祀られていた。この弁天さんには稲荷、淀姫も祀られていた。
明治10年弁天島が陸軍用地として接収されるに当たり、村の戸長が神社を自宅に引き取ることを申し出認められた。

工事の際境内の地中から人骨の入った甕(かめ)が見つかり、場所が大阪城の近くで祭神の一つが淀姫であることから、戸長はこの人骨を淀殿のものと解釈して太融寺境内に移して石塔を建て淀殿の墓としたとのことである。

淀姫とは古い神格で水神とされ、淀殿とは全く関係なく戸長の判断は全く誤りであった。】

◎歴史を見る場合思い込みは禁物で、裏付けが重要であることを教えてくれている。
歴史が好きで都度色々な疑問を抱える事になるが、ある日突然何かのきっかけで答えが見つかることがある。
こういう瞬間に歴史の面白さを再確認することになる。

◎今朝、歩きのついでに近所のくぬぎ林に久し振りに立ち寄ったが、ほとんどの葉が落ちて厚いじゅうたんのようになっており、この葉が来年の為の自分達の肥料になるのだろうと思えて、自然の循環に感じるものがあった。
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