厚狭小学校ゆかりの東明寺について

私は昭和37年(1962)の山口県山陽町(現山陽小野田市)立厚狭小学校の卒業生で、この懐かしい小学校は敷地を新幹線が通ることになり昭和46年旧地より北の厚狭川東岸に移転して現在に至っている。

この旧小学校の由来は2020、8、15、のこの日記「ふるさと厚狭の教育事始め③厚狭小学校」に書いたが、明治5年の学制公布に伴い、厚狭毛利家居館に近い厚狭殿町に新築された「厚狭小学」に淵源があり、「東明寺」という寺の跡地であったと伝わる。

私たちは寺の跡地で学んでいたことになるが、すぐ近くには厚狭毛利家にもゆかりの妙慶寺(現在貞源寺)もあり、ひょっとして混同されているのではという思いも有ったが、昨日別目的で山陽町教育委員会発行の「山陽史話第1集」を読んでいると偶然「徳僧 雲説」という章で、以下の通りのこの解答に行き当たった。

〈雲説は宝永2年(1705)山口県阿武郡明木村生まれ萩で入寺、その後江戸に上って芝増上寺から諸国を巡った後、享保2年(1735)30歳で厚狭殿町の妙慶寺(現貞源寺)に止住、更に20年経過後彼は50歳で妙慶寺を門弟に譲って隠居所に移った、その堂宇を宇部にあった廃寺の寺号を移して東明寺と呼んだ。〉

明治初年の「廃仏毀釈」の高まりの中で妙慶寺と東明寺は何れも廃絶となるが、その後妙慶寺は貞源寺として再興されるものの、東明寺は姿を消したままその跡地に厚狭小学更に厚狭小学校が続く事になる。
「厚狭小学校百年史」に所載の厚狭小学校の位置
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またこの「百年史」には小学校の改築基礎工事の度に人骨が出てきて「ここは、昔は寺のあったところじゃけ」が語り草になったエピソードが記されている。

◎大根の初収穫、まだ少し小さい?
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