細川重男著「論考 日本中世史─武士たちの行動・武士たちの思想─」(株)文学通信 刊を読み終えた。
著者は鎌倉時代や室町時代を中心とする中世史研究家で著書も多いが、この本は著者自身が「はじめに」で「コラム本」と称しているように一般の歴史好きを対象に中世の色々な史料に載る面白そうなエピソードを集めたものである。
学術雑誌、一般向け雑誌、自身のホームページの記事などに新稿を加え全部で51の話題が載せられていて、それぞれ裏付けの史料をもとにしているが、語り口は今どきのものや当時の乱暴な話し言葉をわざと駆使し、敢えて一般の興味を得ようとしているようにみえる。
51話の中で10数話は新しい知識になった内容が含まれていて読んだ甲斐があったが、ここでは郷土史の関係で以前から私が追いかけている毛利氏に関する内容が出てくる第九話「文士」を紹介したい。
戦国時代中国地方に君臨し、江戸時代は防長二州を領した萩藩・毛利氏は鎌倉幕府初代政所別当(まんどころべっとう)を勤めた大江広元(おおえのひろもと)を起源とする。
広元は京に於ける中原姓の下級貴族で、源頼朝との繋がりから鎌倉に下り文士として幕府内で重きを成した。
広元の四男・季光(すえみつ)は父の所領の内相模国(さがみのくに・神奈川県)毛利荘を相続し毛利季光と名乗り毛利氏の家祖となった。
父は文士(文官)であったが季光は武士として生きようと志していて、その意識が見えるエピソードをこの本の第九話で紹介している。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも大きく描写されていた、北条執権家と有力御家人・三浦氏が対立した宝治合戦(宝治元年・1247)でのことである。
季光は御家人として、将軍を擁する北条方に参陣しようとするが、三浦家の出自である妻が夫の鎧の袖をとり「(縁のある三浦を見捨てる)それは武士の致すところか?」と問いかけ、その一言で翻意した季光は三浦方に参陣すべく向かい敗戦の後息子たちと共に自刃する。
その折越後国(えちごのくに・新潟県)にいた季光の四男・経光は事件に無関係とされこの子孫が毛利元就に繋がることになる。
明らかに文士の出身ながら季光も妻も自らを武士と認識していたと著者は語る。
◉合戦終結後北条執権家が敵対した季光の四男・経光を族滅(一族皆殺し)の対象とせず毛利の家名を残させたのは、大江広元の幕府への貢献と季光の武士としての振る舞いの両方があったのではないかと私自身は考えている。
◉今日の二句
苞葉(ほうよう)に隠れ昼寝の蛍草
肩落とす帰路に露草萎(しぼ)みおり
◉秋の季語である露草(別名・蛍草)は毎年路傍にひっそりと咲いているが、今年初めて、花が早朝に咲き午後にはしぼむ半日花と云うことを知った。
確かめるため撮った午前7時頃の状態
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同じ場所の午後2時頃、花は苞葉(ほうよう)に包まれようとしていて半日花を理解した。
「論考 日本中世史」