源(げん)と平(へい)の成立②

8月15日の続き

『臣籍に降下した源氏のなかで多くの者は数世代で零細な存在になり、特に清和源氏が地方に土着して武家化しついには後代、関東を制する事になる。

平氏のなかで関東で土着するのは桓武(かんむ)平氏で、それぞれ地名を名字にして千葉、上総(かずさ)、三浦等、「板東八平氏」などと呼ばれ武力を誇った。

しかしこれら以外の大半の実力者達には筋目などあるわけがなくあらそって自称をし始め、日本全国に源平と少しの藤橘(とうきつ・藤原氏橘氏)が満ち溢れ何れかでないものなどいなくなる。

公地公民を建前にする平安時代の土地制度は、例えば板東の原野を開拓して農場にしても開発したものの所有にはならない。
京都の公家や寺社の所有にして自分は現地の管理者であるという形にして武士は成立した。

京の公家連中が「その土地はお前に差配させぬ」と気まぐれを起こせばそれっきりという具合である。
その為武士は京に上って有力公家に奉公してた機嫌を取ることが常態化する。

京にはこれら武士達の所領安堵の口利き人が出来、東国は源頼朝の先祖、西国は平清盛の父祖が有力であった。

平安時代末期になると諸国の武士が都に自分の口利き人を持ち、公家屋敷に自前で奉公していた実情からそれなりの氏素性が建前上からも必要で、自ら創作されざるを得なかったとも云える。

鎌倉時代から続く武士の時代は、10万を超える自称公家(源平藤橘)の末裔が、低い位階しか持たない頼朝を擁して政権をつくりほとんどが偽作の家系を大切にしつつ明治維新にまで至った時代とも云える』

大河ドラマなどで描かれる源氏と平氏の戦いで、例えば源氏の大将・義経の指揮下にある軍勢は皆源氏の氏素性であり、平氏の大将・知盛の指揮下は皆平氏の流れだと思われがちになる。
しかし書いてきたような事情から、例えば源氏の軍には各地の平氏を名乗る武士が大勢参加しており平氏の軍にもその逆が当てはまる。

いわば源氏や平氏より自分の土地を認めてくれるものの下に馳せ参じることが最優先である。

鎌倉幕府は源氏の幕府と思われがちだが3代実朝(さねとも)
が亡くなると執権として実質幕府の最高権力者になった北条氏は一般的に平氏の出自といわれる。

【鳴く声に 知るや終わりを 法師蝉】

🔘くもり模様の海と空はその境目が時間と共に変わってゆき陸地もその境に消えていく。その海を小型の貨物船が3艘縦列で西から東へゆく。