北条政子の歴史を変えた大演説②

6月25日の続き

主だった東国武士、鎌倉御家人を集めた北条政子の演説のポイントはおよそ次の通りであった。

・故右大将頼朝が朝敵を征伐し関東(鎌倉幕府)を草創して以降、御家人達は「官位」「俸禄」も手に入れた。
その恩は山より高く海より深い。その恩に報いる思いは浅い筈がない。

・今、謀叛を企む悪臣の讒言(ざんげん・偽りの言葉)によって義にあらざる綸旨(りんじ・天皇の命令)が下された。

・名を惜しむの族(やから・人々)は悪臣を討って三代の将軍が残した遺産を守るように。

・但し朝廷側に付くものは今すぐに申し出るように。

(綸旨は北条氏を討てとの趣旨であったが、この演説はそれがあたかも鎌倉全体に向けたものであるかのように、また朝廷に刃向かうのではなく周りの悪臣を退けるといったような論旨にすり替え、御家人の結束を固める巧妙なものであったとも云われる)

この演説で誰一人異議をはさむことなく鎌倉方としての結束が確認された。

この後執権・北条義時の嫡子・泰時が総大将となり京を目指して進軍、朝廷側官軍を討ち破る。

当時の常識は、基本的に官軍となった側が「勝つ」ということであり常識を覆すことで朝廷と幕府の力関係が逆転、後鳥羽上皇隠岐の島に配流され朝廷側に加担したものはそれぞれ処分を受けた。

この「承久の乱」は日本史上初めて東日本が西日本に勝った戦いとも云われ、本当の意味で武士の世が出現する画期となる。
乱後、鎌倉幕府の支配が全国に行き渡り、東国武士が西国九州まで守護地頭等で進出し根を下ろすことになる。

室町時代以降西国で名をなす武士団は、この時期西国に根を下ろしたことに出自があるものが多く、新補地頭(しんぽじとう)と呼ばれる。

このような歴史のターニングポイントが女性の演説で決まったと考えると、とても痛快なことに思えてならない。

🔘6月25日にこのテーマの①回目を書き、習慣で翌日26日の毎日新聞朝刊をたまたま手に取ると一面の「余録」というコラムでこの北条政子の演説が取りあげられており、その偶然に驚いた。
またこのことを同級生からのコメントでも頂いた。

🔘健康公園樹木シリーズ これはタブノキ 実を付けている。枝葉の樹液は線香などに利用されることもあるらしい。