山陽町史⑧松嶽山正法寺と元寇(げんこう)

8月8日のこのブログ山陽町史⑥に書いたように、厚狭の象徴のひとつ松嶽山・正法寺(中世の頃は松嶽寺とも呼ばれた)は源平壇ノ浦合戦の際、軍兵に襲われ全山焼失して寺伝、寺領等が皆無となった。

戦火より38年後、貞応2年(1223)正法寺の僧・大賢は再建の為新たに寺伝と財産目録(新券流記帳・しんけんるきちょう)を作成して国司へ嘆願、遂にこれが入れられて伽藍は復興、国分寺に次ぐ格式の高い寺院とされ、蒙古軍来襲の国難に際して異国降伏祈祷を命ぜられ全山挙げて実行した。

蒙古(もうこ・モンゴル)軍の来襲は「元寇」と呼ばれ海に囲まれ外敵侵入の歴史が少ないわが国にとっては大事件であった。

モンゴルは当時既にアジア、ヨーロッパを制し各地を分割統治していたが、中国を中心に治める皇帝・フビライは北京に都を定め国号を元とした。その後南宋を下し朝鮮半島・高麗(こうらい)を服属させ、ついに日本に威圧を加えて来た。

時の鎌倉幕府の執権・北条時宗は断固これを退けた為、元と高麗連合軍は文永11年(1274・文永の役)、弘安4年(1281・弘安の役)の二度に渡って大軍が九州に来襲、暴風雨の助けもあり日本は撃退に成功する。

厚狭周辺の領主層、厚東(ことう)氏、箱田氏などもこの戦いや警備に従軍したとされる。

幕府は弘安の役後も蒙古軍の来襲を警戒し北九州や西長門一帯の警備を強化、九州博多に鎮西探題(ちんぜいたんだい)を置くと共に、時宗の弟・北条宗頼長門探題(ながとたんだい)に任じ、最前線防衛機関として山陰道山陽道の軍事民政を総括させた。(長門探題が置かれた場所は長府が最も有力視されている)

また朝廷、幕府は共に諸国の寺社に再度の来襲に備えた異国降伏の祈祷を命じた。これに応じ長門探題から正法寺へも指示があり、現在厚狭図書館に遺されている「正法寺文書」のなかに読誦(どくじゅ)した経の名前、回数などを記録した文書がある。

🔘今日の一句

 

海越へし蝶の舞いたる藤袴

 

🔘健康公園管理室横のナデシコ