厚狭毛利家代官所日記㊼慶応2年(1866)①小倉口への参戦

幕府の大軍と長州藩が直接戦火を交えることになった第二次長州征伐・四境戦争は慶応元年(1865)4月に征討令が発せられたものの実際に幕府軍が攻撃を開始したのは翌年慶応2年6月であった。

長州藩は四境(大島口、芸州口、石見口、小倉口)全てで優勢に戦いを進め、幕府は8月20日14代将軍・家茂の喪を発する共に15代慶喜の就任を発表、更に8月21日孝明天皇が勅命を下したことで休戦撤兵する。

代官所日記は慶応元年9月から慶応2年8月の間が欠落している。この為山陽町教育委員会が編集発行した「山陽史話一」に掲載されている明治11年に書かれた「観山(物見山)招魂社由来」や「山陽町史」をもとに四境戦争に於ける厚狭兵の戦いを追跡してみる。

厚狭毛利家では九州小倉口方面の指揮を取る高杉晋作に出兵を志願、この方面への動員が許されて7月27日埴生(はぶ)に集結、28日に対岸の大里に上陸した。従軍兵員は二個小隊総勢86名(これに多数の夫卒が加わる)で自ら「強義(きょうぎ)隊」と称した。

(86名は以前このブログで書いたように厚狭毛利家が購入出来た小銃の数に同じで、当時最大限可能な動員であったことが分かる)

小倉口の戦いでは狸山の攻防戦がもっとも激しく奇兵隊、長府報国隊、万倉(まぐら)忠国隊等と共に強義隊もこれに参戦した。

ただ参戦した時期から見て出遅れ感は否めない。

幕府軍の諸将が戦線を離脱するなか、8月1日小倉藩は城を焼いて幼い主(あるじ)や女子を熊本に逃した。この後も戦いは散発小倉兵が奮戦するも、他の三口と共に大勢は決して10月10日小倉藩と止戦の講和が成立した。

11月2日の日記には強義隊は厚狭に帰着、直ぐ様厚狭毛利家当主が接見お酒を下されたと書かれている。

この戦役での厚狭兵・強義隊の戦死者は4名、何れも厚狭東部にある物見山招魂場(ものみやましょうこんじょう)に祀られている。また後日明治21年に東京の靖国神社にも合祀された。

 

氷雨去り墨絵の海をフェリーゆく】

 

🔘近くの道のそばにある花壇、画像検索ではマリーゴールドのように思われる。