厚狭の領主・三沢為虎①

私の故郷厚狭(現山口県山陽小野田市厚狭)はこの日記でも書いてきた通り、江戸期藩政時代を通じて厚狭毛利家と熊谷家の領地であったが、厚狭毛利家が入部する直前までは、毛利家に属した三沢為虎が厚狭一円を知行していた。

三沢氏は清和源氏の出自で、鎌倉時代承久の乱」後に出雲国(島根県)三沢郷に地頭として下向したいわゆる新補地頭で、三沢氏を称した。

出雲は、戦国時代山陰の覇者尼子氏の地盤であり、その被官として生き延びたが、尼子氏が毛利氏に滅ぼされると他の国人領主同様に以後毛利に属した。
為虎時代には功を重ねて山陰地方、出雲、隠岐伯耆鳥取県)で総高12万石を拝領、摂津守を称した。
(12万石と言えば一般に約3000人の軍事動員が可能で、毛利家中でも当時重きをおかれていたことが分かる。)

今、歴史家・光成準治さんの著作「本能寺前夜・西国をめぐる攻防」を読んでいる最中だが、(とても面白く読み終えた段階でこの日記に書くつもり)この中に三沢為虎に関する記述を見つけた。

戦国時代末期、天正8年(1580)山陰地方に於ける織田(羽柴秀吉)と毛利の攻防が激しくなるなか、出雲の有力国人三沢為虎が毛利氏に忠誠を誓う起請文を提出している(提出させられた?)とのことである。

毛利氏にとって外様と言える三沢氏が、家中で微妙な立場に置かれていることを暗に窺わせる史料と言えるのではないだろうか?

その後、豊臣政権時代天正17年(1589)当時の毛利氏居城広島城の造築を指揮していた三沢為虎は突如として、主君輝元の軍勢に取り囲まれ、その場で旧領の没収と長門国厚狭郡に1万石を与える沙汰を告げられる。

〈山陽町史に依れば、「三沢覚書」と呼ばれる史料に、この時の為虎の心情として一戦か自刃か迷ったものの老臣の諫言で自重したと書かれてあるとの事である。〉

その後為虎は厚狭に下向、厚狭川河口、現在の下津(当時は板垣の津)に居を構え在邑することになる。

天正17年太閤検地と呼ばれる全国にまたがる検地で、毛利輝元は八ヵ国112万石の所領となり、この検地に基づく毛利家「八箇国時代分限帳」が残されているがこの中に厚狭郡内10000石2斗5升として三沢摂津の記録がある。

(後日に続きを書きます。)

◎今朝は雨の合間を利用して、大根を収穫した跡地にサツマイモ「紅あずま」の苗10本を植え付けた。
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2週間前に植え付けたサツマイモ「安納芋」10本は枯れるのではないかと心配したが何とか根付いたようで一安心。
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