萩藩では初代毛利輝元が死去し2代目秀就の時代、慶安3年(1650)、長府、清末、徳山、岩国の各支藩領を除く防長両国(周防、長門、現在の山口県域)を18の地域に分けて民政を行うようにし、これを宰判と呼んだ。
厚狭毛利家の給領地は主に厚東郡舟木村、厚狭郡末益村(この他に阿武郡高佐村に一部がある)であり、その内舟木は舟木宰判、末益村は吉田宰判に属していることから必然的にこれらの宰判との関係が生じた。
萩藩の民政を統括するのは郡奉行、その役所が郡奉行所でこの管轄内で各宰判を個別に統べるのが代官である。
代官は平常は萩城内の郡奉行所に勤務するが、春と秋各40日間と冬10日間は各宰判の役所である代官所・勘場(かんば)に出張した。
勘場には常駐する最高の職位で諸勘定を所管すると共に政務全般に関与する勘定役(又は算用方)、寺社方、山方、普請方、記録方、等があり、交通の要衝にある番所(関所)に勤務する番所役もあった。
(厚狭川の河口、下津には番所が有った)
これ等の役には手子(てこ)と呼ばれる助手役が付く。
また民間から選ばれる村役人のなかで勘場に常駐する勘場三役と呼ばれる村の政治を実質差配する役職があった。
・大庄屋ーー宰判毎に1名、各村の庄屋、米銀の出納を統括
・恵米方(けいまいかた)ーー大庄屋の補佐で凶作対応や、恵まれない人の救済等
・算用師ーー公金銀に関する一切の会計事務
給領地を治めるということは、封土建国(ふうどけんこく)と呼ばれるように封建制度の典型と思われるが、その一方で中央集権制度に近い各宰判による統治が全体にあるというのは制度的に複雑で無理があり、厚狭毛利家代官所日記にもその関係に苦労している様子が時折現れる。
具体的な記述例は次回に。
◎夏はやっぱり向日葵(ひまわり)だろうか図書館の玄関で。