厚狭毛利家代官所日記⑭嘉永5年②異国船騒動①

厚狭毛利家の民政を記録した代官所日記・嘉永5年(1852)を現代文に直す、この稿に関連してブログの9月23日、27日の2回「まえがき」を書いている。

閏2月23日の記録

今23日夜五つ時(PM8時)過ぎ、萩より飛脚到着、肥中(ひじゅう・9月23日のブログ参照)沖20里余り隔たったところに異船一艘が漂来、萩表(はぎおもて・萩城下)では大きな騒動になっている。

次の知らせが来次第ご出馬されるので、何時にてもお供の面々、中間(ちゅうげん・武士に従い雑務に当たる)まで萩へ出張出来るようにとの仰せ付けが到来した。
厚狭御用所の役職者、役所詰めのものが協議の上その手当てを以下「覚え」の通り沙汰する。

「覚え」
一、異船への手当てについて、過ぎる弘化2年(1845)10月に沙汰しておいた通り中間80人、小荷駄(荷物用馬)14頭、口付け(馬方人足)一人当て以上(馬一頭に付き馬方一人以上)、兼ねて指示受け分を即刻手当てする事。

付 、銘々の支度は股引き、ねじからけ(着物の端を帯に挟んで動きやすくする事)脇差し(小刀)を差してまかり出ること。
付 、何時でも出立出来るよう弁当、馬の飼い葉、等を用意する事、馬の沓(馬のわらじ)も同様に。

一、たいまつ200本を用意する事。
一、鞋(わらじ)200足も同様の事

一、妙慶寺(現在の厚狭・貞源寺)惣社(厚狭・惣社八幡宮)(何れも厚狭毛利家居館に近い寺社)にて二つ切り(カンカンーカンカンいわゆる早鐘)の鐘の合図次第、村々へ受け継ぎ鐘太鼓二つ切りにて滞りなく端々まで合図を運ぶ事、これらを合図に郡(こおり・厚狭毛利家居館があった場所)御役所へ駆け付けるべき事、

若し遅刻したものは本人は申すに及ばず引き受けの地役人(庄屋等の村役人)まできっと落ち度として申し付ける。
手堅く沙汰をして人別受け状を申し付け、庄屋の担当範囲内分を書面にして申し出ると共に抜け目無く沙汰すること。

以下各村々から先の「覚え」に記された事項の割り当て分について、中間役、馬、馬方、の名前や用意するたいまつなどの数などが記された村役人毎の受け状が多数添付されている。

◎萩・毛利藩では英国と清のアヘン戦争(1840~42)以来海防論が高まると、天保14年(1843)に萩城下で大調練(だいちょうれん・軍事演習)を行うなどしており、この日記に書かれているように弘化2年(1845)には異国船が来たときの対応が既に決められていたようである。

◎この当時の厚狭毛利家当主は第9代毛利元美(もとよし)で
一門家老として萩に常駐しており、事が起きると給領地・厚狭から人、ものを調達する必要があり、日記にある「ご出馬」とは元美が家来を率いて出陣する事を指している。

字数が尽きたのでまとめは次回に。

◎家の脇で毎年自生している青ジソ、茎が切れているのは近所の方に勝手に切り取って下さいと伝えているため。