厚狭毛利家⑪四境戦争と強義隊結成

慶応元年(1865)長州藩は急進討幕をも視野に入れた政府員の交代、藩論統一がなされ同時に武器の刷新を含む洋式軍制改革が桂小五郎木戸孝允村田蔵六大村益次郎)等の主導で進められ。これを見た幕府は11月第二次征長令を発し諸藩を再動員した。

翌慶応2年(1866)幕府軍長州藩の四つの境、山陽道(芸州口)山陰道(石州口)瀬戸内海(大島口)九州(小倉口)に押し寄せた。この為長州ではこの戦いを四境の役、また四境戦争と呼ぶ。

6月大島口より戦闘が開始されるが、士気、武器、戦略戦術、何れにおいても終始長州藩が圧倒した。
この状況下7月厚狭毛利家では当主の俗論守旧派との汚名を返上すべく領内で「強義隊」を結成、高杉晋作に請願して九州小倉口に出陣した。従軍の兵員は二小隊、家老以下総勢86名これに多数の夫卒が加わる。

厚狭強義隊は奇兵隊などと共に8月より本格的に戦闘に参画、幕府側が小倉城を自焼して立ち退くなど海を渡った長州側が戦況有利に展開した。
また他の3境に於いても長州藩が有利な状況下、9月2日幕府側勝海舟等と休戦協定が成立した。

これを契機に幕府の権威失墜は決定的なものになり、翌慶応3年(1867)1月孝明天皇崩御に伴い解兵令が出された。
この戦いでの厚狭兵の戦死者は5名と伝わり何れも厚狭物見山招魂社に祀られている。