厚狭毛利家代官所日記②天保6年②兎狩り接待

5月26日の続き、

天保6年(1835)代官所日記 2月2日記載分の要約

【廻神舎人(めぐりかみとねり)・松崎市郎左衛門、梶沖(厚狭川下流域の地名・かじおき)開作(かいさく)の見分として忍びにて昨夕、船木(ふなき・厚狭毛利家領内)迄罷り越し、今朝家老以下出迎え、梶浦庄屋宅で食事後現場見分同夜止宿。
翌日も開作各所を見分、薄暮厚狭毛利家居館にて止宿。

さらに翌日諸役人挨拶の後、逢坂村(あいさかむら・厚狭毛利家領内)付近で兎狩りを催し接待、その後庄屋宅で止宿、この時厚狭毛利家家臣一同が取り持ち。
翌日瑞松庵(ずいしょうあん・船木に有る名勝寺院)参詣後庄屋宅で饗応、その後萩へ帰還になる。】

開作とは長州・萩藩の言葉で新田開発のことで、厚狭毛利家ではこの頃所領を増やすべく、厚狭川の下流域を干拓して開発することを計画、藩府に許可を申請していた。

2名の見分者について山口県文書館に依頼して調べて貰ったところ
・廻神舎人ー萩藩大組(中核身分)禄高250石
・松崎市郎左衛門ー厚狭毛利家家臣禄高不明、但し私の所持する後年の分限帳には、同姓で30石の記載がある。

更に調べていくと山陽町史の開作の項に、厚狭毛利家九代元美の時代天保6年に着手した古開作の記載があり、2月2日藩府から開作現場に検使役の出張があり藩許がおりたことが書かれてある。

すなわち廻神舎人は萩藩の検使役で、松崎市郎左衛門は厚狭毛利家の萩屋敷詰めで検使役の付き添いと判断される。

領内での兎狩りや饗応等の厚狭毛利家挙げての涙ぐましい接待努力で、めでたく開作の許可が得られたことがわかる。

然しこの後この開作事業は資金集めに難渋を繰り返し、古開作と言われる部分の潮止め迄12年、新開作と呼ばれる部分の潮止め迄実に21年の歳月を費やすことになる。

いつの時代でも認可を受ける側の労苦は並大抵でないのが当時の日記から伝わってくる。
兎狩り接待はどのようなものだったのか、多分近辺の農民が兎を追い出す勢子(せこ)などで動員されたと思われる。

兎はその後ろ脚の特性から上りには強いが下り道では速く走れない、子供の頃母親の実家で教わった記憶があるが、きっと下り坂に追い込み捕まえるのだろう。
まさか鉄砲までは使ってないと思うのだが。

◎これはユリズイセン科のアルストロメリアのような気がする。