「幕末雄藩列伝」③土佐藩と肥前佐賀藩

明治維新政府を構成した主要な旧藩を薩長土肥(さっちょうどひ)と呼びならわすことが多い。

薩摩長州は言うまでもないほど取り上げられているが土佐(高知県)山内家、と肥前(佐賀県)鍋島家は前二藩ほど取り上げられる機会が多くなく敢えてここに書かして貰うことにした。

土佐と肥前はどちらも幕末に英明を知られた藩主が出たことで表舞台に出てきたことで共通している。

土佐は第15代藩主山内豊信(とよしげ・容堂)で自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と号した酒豪で藩政を吉田東洋に託しその結果後藤象二郎板垣退助谷干城などの上士出身の人材を輩出させた。

一方藩の成立時から伝統的に対立が深い下士出身は土佐勤王党を結成し対立しながら中央政局の一翼を担い、公武合体策や大政奉還などで土佐藩は主導権を握り、戊辰戦争にも板垣退助を中心に土佐兵は活躍して新政府に重きをなすことになる。

明治5年山内容堂は過度な飲酒がたたり脳梗塞で世を去る。ちなみに土佐の酒「酔鯨(すいげい)」は「吉田類の酒場放浪記」でも時々出てくるが容堂の号からとられている。

肥前佐賀は第10代鍋島斉正(閑叟・かんそう)である。元々長崎警備を担って来たこともありいち早く西洋技術に注目、藩の財政再建と並行して従来の青銅製ではない鋼鉄製大砲を製造するなど蒸気船の内製化も含め藩軍の近代化を独力で成し遂げた。

この近代化した兵力は求めに応じた官軍側の大きな戦力となり鳥羽伏見、戊辰戦争にも最新鋭アームストロング砲や連発スペンサー銃を擁して参戦して威力を発揮した。

結果的に佐賀藩の発言力は明治政府のなかで江藤新平大隈重信副島種臣などに受け継がれることになる。

鍋島閑叟は実力を認められ封建藩主として唯一明治政府の首脳陣に加えられ、三条実美(さんじょうさねとみ)に次ぐ地位を与えられたが、明治4年(1871)体調悪化で死去した。

鍋島閑叟佐賀藩はいわば明治日本を先取りした藩とも云え、危機の時代に於けるリーダーの資質の大切さを教えてくれる。

もし鍋島閑叟が長命であったなら維新政府の構成は大きく異なっていたかも知れない。

 

🔘施設の玄関横に咲いているのはツワブキと思われる。葉の形は全く違うが花は菊やコスモスに似ている。