2019年5月1日のこのブログで「青木周蔵を知っていますか」と題して私の郷里山口県厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)が輩出した唯一の大臣・青木周蔵のことを書いたことがある。
明治時代に黒田清隆、山県有朋両内閣で外務大臣を歴任し、幕末に結ばれた欧米との不平等条約改正に尽力した。
長州藩の藩費でプロシャ(現ドイツ)に留学した先駆者でもあり30歳で最初の駐ドイツ公使となり以後計三度ドイツ公使を勤めた。
明治13年(1883)二度目のドイツ公使を終え外務次官に就任帰国して明治天皇に報告謁見した際のエピソードが司馬遼太郎全集に収録されている「この国のかたち・日本の君主」に載っている。
欧州暮らしが長い若い外交官青木は、ドイツ皇帝のように万能の権力者に天皇がなることが文明的だと思い明治帝に「陛下はなぜ政治を臣下におまかせになったままなのでありましょう」とそんな議論をふっかけたらしい。
明治天皇はただ笑ってやり過ごし青木が退出したあと伊藤博文を呼びこういわれたという。
「こまったよ、青木に日本のことをよく教えておいてくれ」
以前このブログにも書いたが幕末の長州藩主・毛利敬親は蔭で「そうせい公」といわれて家臣の提言を常に是として藩政が左右に大きく振れても、本人も長州藩も生き残り明治維新を迎えることが出来た。
明治憲法を実質的に作った伊藤博文は君主像を考える上でこれらのことが頭のすみにあったかもしれない。
青木周蔵は長州閥の一員として子爵 、外務大臣に上り詰めるが、同じ長州閥でも伊藤博文とはあまり反りが合わず山県有朋に近かったと言われる。
先のエピソードを読んで考えて見ると、伊藤との国家や君主のあり方について考え方の違いが大きく影響しているのかも知れない。
【暗き朝 漁(いさ)り船消え 秋の涯】
🔘屋上庭園のこの花は肉厚の葉っぱから見るとデロスペルマ・クーペリーという難しい名前かも、またマツバギクかもしれない。