長州人の戦友を想う言葉

先日行われた安倍元首相の国葬で友人代表・菅前首相の弔辞は色々なマスコミが取り上げていた。

その中で菅さん自身の思いを最もよく詠み込まれた歌として紹介されたのが、山県有朋伊藤博文に先立たれた際に詠んだ次の歌であり複数の新聞が載せていた。

【かたりあひて  尽しゝ人は  先立ちぬ  今より後の  世をいかにせむ】

両人は草莽(そうもう)から身を起こし幕末の風雲を共に戦いくぐり抜け、山県有朋大村益次郎の後を継いで明治陸軍をつくり、伊藤博文は初代総理大臣等を歴任し明治の政治を牽引したが、中国ハルピン駅頭で凶弾に倒れた。

この報道を聞くなかで私がもうひとつ思い浮かべたのがやはり長州人の高杉晋作が明治の世を見ることなく病に倒れたことと、それを悼む伊藤博文の言葉である。

高杉は遺言もあり奇兵隊にゆかりの下関に近い吉田の地に葬られたが、その墓域にある顕彰碑には伊藤博文による撰文が刻まれている。

【動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然(しゅうもくがいぜん)として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや】

(東行・とうぎょうは西行法師にならい高杉が自ら称した号である)

伊藤は幕末の一時期高杉と行動を共にし、高杉が元治元年(1864)12月反対派の藩政府打倒のため下関功山寺で少人数で挙兵した際もいち早くこれに加わっている。

このとき高杉は馬上のままで功山寺の石段を駆け上り当時寺にいた都落ちの公家衆に「これより長州男児の肝っ玉を御見せする」と叫んだと伝わる。

伊藤の撰文はこの時の高杉の勇姿が脳裏にあったのではないかと想像している。

🔘ここで各人の経歴を語るつもりはないが、高杉晋作山県有朋伊藤博文何れもが、例えその時少数劣勢であっても自らの信念に従い修羅場や弾雨をくぐり、共に死地を切り抜けてきたからこそ発することが出来るいわば戦友への言葉なのだろう。

🔘私も長州人のひとりとして先人たちの行動あれこれを知る立場から、これらの言葉や歌の重みが胸に響いてくる。

 

【 友想う  先人の文(ふみ)  秋刻む】

 

🔘施設の玄関近く、ニチニチソウと思われる。