中断中の独り言・土佐人のことなど

現在終盤を迎えているNHK朝ドラ「らんまん」は土佐生まれの植物学者・牧野富太郎をモデルにしたものだが、演じているのが現代の若者の代表格とも云える神木隆之介さんなので、高知県の若者には申し訳ないが、どうも私の持つ土佐人のイメージからは程遠い気がしている。

私が土佐人のイメージにピッタリ嵌まると思うのは土佐生まれで「酒場詩人」を自称されている吉田類さんで、出演のBS民放の番組「酒場放浪記」やNHKの「にっぽん百低山」は録画して楽しみに観ている。

吉田さんは、がにまたで元気に画面を歩かれるが、司馬遼太郎さんの随筆集に「歴史の舞台」というのがあり、その「あとがきに代えて」という章で土佐に行かれた時のことを以下のように書かれてあり吉田さんに重なる。

『土佐ではおじさんのことをオンチャンという。この言葉に重なる人間的なイメージは、ほどのいい泥臭さと武骨さである。ガラス窓のむこうをゆききしているひとびとのなかの十人に一人はそういうオンチャンが、がにまたで歩いていて風骨愛すべきものがあった。』

土佐では頑固おじさんのことを「いごっそう」というらしいがこれは「一領具足(いちりょうぐそく)」がなまったものとも伝わる。戦国時代土佐の長曾我部氏が四国を席巻した際、兵力不足を補うため普段は田畑を耕すものにも一領だけの具足を与え、いざ出陣の際には田畑に置いてある槍と具足を身に付け多数が群れ集まった。

江戸時代になると土佐には遠州掛川から山内氏が入部し「一領具足」は百姓に戻り一部は郷士となったが、この「長曾我部侍」と上士である「山内侍」との差別は極端に厳しいものであったと伝えられている。

幕末土佐ではこの郷士階級を中心に200人余りの「土佐勤王党(とさきんのうとう)」が結成され、土佐藩が新政府側に与する原動力になった。

また維新後土佐藩出身者は自由民権運動の中核を成すが、これはやはり長曾我部侍の風土が有ってこその事と思える。

それはそうとして土佐人・吉田類さんが番組のなかで、幕末土佐藩主・山内容堂の号「鯨海酔侯」から名前をとった清酒酔鯨」を故郷の酒として旨そうに干す姿は様になっていて長曾我部侍の風格がある。

🔘施設の園芸サークルの畑では天王寺蕪(かぶ)の芽が群れ出ている。これだけ密集していると否応無く間引きが必要になってくるが、蕪の芽にしてみると間引きされるのは嫌なことに違いない。

 

若い芽が間引菜厭(いと)い気負い立つ