「逆さひょうたん」

激動の幕末は色々なエピソードに彩られているが、これもそのひとつかもしれない。

土佐と長州の要人が江戸で会同、酒を酌み交わした席で土佐前藩主で藩の実権を握る山内容堂(やまのうちようどう)は長州の周布政之助(すふまさのすけ)や久坂玄瑞(くさかげんずい)を前にして「逆さひょうたん」の絵を見せ酔った勢いで「長州はこれだ」と言ったらしい。

長州藩は下位のものが藩を牛耳っていることを当てこすったのだが、長州側も黙っている筈がなく一触即発の状態まで立ち至った。

他藩からもそのようにみられているように、確かに当時の長州藩は封建時代でありながら、実質的に中堅以下の藩士が動かしているような雰囲気が散見された。

例えば村田清風(むらたせいふう)、周布政之助椋梨藤太(むくなしとうた)、木戸孝允(きどたかよし)、広沢真臣(ひろさわさねおみ)などが有名で、これらは中級武士・大組(おおくみ)の出自で入れ替わりながらも実質的に藩を差配していた。

長州藩では藩主が参勤交代で江戸に出府する場合も国許に居る場合も常に随行し、藩主の決済が必要な案件に対応する当役(行相府)と、当職(国相府)と呼ばれた藩内の行政を担当する二つの政府組織があり、その各々のトップは一門家や寄組(よりくみ)とよばれる最上級家臣の内の優れたものが務めていた、他藩の家老職である。

各々の政府は、用談役、手元役、右筆役(ゆうひつやく)などと呼ばれる役職の政府員が実質切り盛りする組織となっていた。すなわち外からみると当役当職の業務を実質代行しているようにみえるわけである。

一門家は別にして、寄組士が当役、当職に就いた場合、もし用談役や手元役の就職階級が同じ寄組であった場合、心情的に指示命令に従い難いということから、この就職階級を寄組の下部、大組と呼ばれる中堅250石以下の家臣に宛がうようにしたと考えられる。これらの役職に就くものはそれまでに他の色々な行政職を務めて累進選別されるようなシステムも出来上がっていた。

用談役、手元役、右筆役などの政府員はトップを代行しているような側面もあり、より上位階級の武士達を凌ぐ影響力を行使し、外からみると「逆さひょうたん」のような構図が現れる。

ちょうど現代のホワイトハウス首相官邸の補佐官のイメージかも知れない。映画などで大統領補佐官国務長官、国防長官、軍のトップを集めてミーティングする場面があるのが想像される。

実力のある中堅家臣を役職に付けたり、または下級家臣を中級まで引き上げれば藩政のトップと同じような活躍が期待できるわけで、封建時代に於ける実力主義のはしりと言えるかも知れず、このようにして長州藩は歴史の表舞台に出ていくことになる。

🔘今日の一句

 

幼子は落ち葉踏む音嬉しくて

 

🔘施設介護棟屋上庭園、画像検索では地中海原産のロータスブリムストーンと出ているのだが。