高杉晋作さんは男の男よー②

3月30日の続編、
幕末を駆け抜けた奇兵隊創設者・長州藩高杉晋作は、否定的な側面も取り沙汰されるが、他の者では決して真似できないことを二つも成し遂げたと私は思っている。

一つ目は、
長州藩文久3年(1863)5月、天皇及び幕府が定めた攘夷期限を実行、下関海峡で外国船に砲撃を加えたが、元治元年(1864)8月この報復の為4ヶ国(英米仏蘭)艦隊が下関に来襲、圧倒的な武力の差で敗北、講和交渉に入った。

高杉晋作は毛利一門筆頭・宍戸家の養子として偽名で交渉に臨み、関門海峡の通過や砲台の取り壊し等の要求を受け入れ講和に至ったが、4ヶ国が要求した下関彦島の租借は拒み通した。

この交渉に通訳として同席した伊藤博文は後年「危ないとこじゃった、もしかしたら彦島は香港に、下関は九龍半島のようになっていたかもしれん。」と伝え残している。

二つ目は
長州藩は元治元年7月京都御所禁門の変を起こして敗退、朝敵となって幕府から長州征伐を受けることになる。
この為藩政府内で、幕府に恭順を志向する派閥俗論派が台頭実権を握り禁門の変の責任者を含む攘夷正義派を粛清した。

この時九州に難を逃れていた高杉晋作は藩政府転覆の決意で帰国、奇兵隊などが日和見するなか、80名程の人数で下関に挙兵、当時長府功山寺にいた三条実美等五卿に挨拶して出陣、苦しい戦いを進めるなかで奇兵隊や諸隊も遂に同調、政府軍を打ち破って正義派倒幕派主体の藩政府が誕生し、その後の薩長同盟、四境戦争勝利や鳥羽伏見の戦いに繋がる。

高杉晋作の功績として広く知られる奇兵隊の創設は、もともと長州藩内にその素地があり、他の誰かでも出来たかもしれないが、先に書いた内容はドン底、逆境の中での総合力の発揮であり、高杉晋作だからこそ出来た運命的な働きと私には思える。

このようなことから「山口県民謡・男なら」の中で「♪♪高杉晋作さんは男の男よー偉いじゃないかいなー♪♪」と唄われるようになったのではないだろうか。
29歳の早すぎる病死だった。